2010年6月29日火曜日

「陽炎の街」

向日葵がぎらぎらと
朝日を乱反射する
夜明け

東からの光は延びて延びて延びて、
街を真っ二つに裂く

見えない亀裂は
人を呑みこみ
影を呑みこみ、

気づけば空っぽの街
残骸と呼ばれるべき街

これは一瞬の空白

ここでの主人公は誰れ?
人間じゃないの 人間は消えたわ
主人公は誰れ?
私 私 私?

裂傷した街を闊歩する
一番に陽光を浴びた向日葵が

裂傷した街を闊歩する
二番目に陽光を浴びた朝顔が

裂傷した街を闊歩する
三番目に陽光を浴びた油蝉が

でも
もはや誰も主人公にはなれない
裂傷した街はもはや
誰も受け付けない

気づけば
呑みこまれた筈の人間が
ゆらゆらと陽炎のように再び
立ち昇り、立ち昇り、
バスに揺られ、電車に揺られ
まるで昨日までの風景
繰り返されるばかりの

しかしそれは
今日からの風景
街は裂傷した
もはや元には戻らぬ
裂傷に気づかぬ人々の
傲慢さが街を闊歩する
ゆらゆうら ゆらゆらり
世界はそうやって
今日も巡る
ゆらゆらり ゆらゆらり

二度と 元には戻らぬ

2010年6月27日日曜日

「桃」

桃の皮を剥く
指でそっと摘んで

剥いて剥いて剥いて
楕円形の桃は裸になって現れる

皿の上

娘が汁を滴らせながら
頬張って、頬張って

その時

一滴
彼女の白いスカートに落ちた
薄桃色の汁
広がる
薄桃色の染み

気づかずに頬張り続けている娘の
スカートのその小さな小さな染みに
私は気をとられ、

気づけば空っぽの皿
桃 空っぽ
残ったのはその 微かな染み だけ

2010年6月24日木曜日

「砂の歌」

蜘蛛のように蟻が糸をもって
私の手に絡み付いてくる

払っても払っても糸は切れず
蟻はその糸を伝って再び私の手に掴まろうとし、

私は慌ててそれを薙ぎ払い、
何度も薙ぎ払い、見えない糸の在り処を探している

いつから蟻が糸を持つようになったのか
誰か知りませんか
いつから蟻が人の手を餌にするようになったのか
誰か知りませんか

いつか蟻地獄に人が滑り落ちるなんていう光景が
目の前に繰り広げられるのかもしれない

そうやって
思ってもみなかった光景が
思ってもみないところで在り得、
私たちの世界は徐々に徐々に
崩れてゆく

誰の手を借りることもなく
ただ
崩れてゆく
しゃらしゃらと
手のひらから滑り落ちてゆく砂のように
しゃらしゃらと
崩れてゆく

今夜もあの砂山ではきっと
砂の歌が歌われる
しゃわわしゃわわ
しゃららしゃらら
浸食されゆくばかりの砂浜が
声なき悲鳴を上げて
しゃわわしゃらら
しゃわわしゃらら

そうやって崩れ行く世界
もう誰も
止めようは ない

2010年6月22日火曜日

「啼」

鯨が啼いた

噴出した血飛沫で
夢は真っ紅

雲雀が啼いた

劈くその声で
夢は真っ二つ

葦が啼いた

囁くその葉音で
夢は木っ端微塵

そうして私は
脚の折れた椅子に
腰掛ける
途端に夢は、あっけなく終わり、

今、誰が見てた?

誰も見ていない
すべては夢だもの
誰も何も見ていない
だから何もなかった
誰も何も聴いていない
だから何もなかった

時の音だけが
唯一の 証人だった
言葉を持たぬその音だけが
唯一の証人だった

だから何もなかった
何も起きなかった
法廷に立つことのできない証人など
いないに等しくて、

世界はそうして
廻り続けてる

2010年6月20日日曜日

砕ける波

海が好きだ。振り返ってみて、一体いつから自分が海を愛し始めたのか、その始まりさえ分からないほど、昔から海が好きだ。
眺めているのも好きだし、中に入ってじゃぶじゃぶやっているのも好きだし。ただ潜って目を開けて、辺りをじっと眺めているのも好きだし。でも何より、海の何処が好きかといわれれば、それは、波が砕ける、その様だと思う。

学生の頃、毎日海辺に通っていた時期があった。家になかなか帰れなかった時期である。片道二時間強、どのルートを通っても、どこかしらに海が在った。だから私はおのずと、海に導かれるようにしてそこへ行った。そうして時を過ごした。
別に何をするわけでもない。ただ岩場に座り込んで、ひたすらに波を眺めている。大きく砕けるときもあれば、小さくさざなみだつだけのこともある。ひとつとして同じ波はなく。それが私には、たまらなく魅力的だった。

日が落ちる頃、金色の道が海に生まれる。その道がきれいになくなるまで、ただ眺めていた。道がなくなると、一気に闇が訪れて。海は水平線を闇に溶かし込み、私を呑みこまんばかりの勢いで深く濃くなるのだった。

波の音を聴きながら、私はその日あった出来事を辿っていた。いやなこと、よかったこと、いろんなこと、そうして辿って、下を向いた。あの頃は、毎日が重かった。できれば今すぐにでも、すべてを捨て去りたかった。逃げて何処かへ行ってしまいたかった。二度目の高校に通い始めた頃のことである。
何処にも居場所がなくて、だから私はただ、彷徨っていた。そして、この海の向こうになら、きっとひとつくらい、これっぽっちくらい、私の居場所があるはずだ、なんて、勝手に思っていた。砕け散る波を見ながら、いつか、いつか必ず自分の居場所を見つけてやる、と、いつもそう、思っていた。

今、目の前で砕ける波を眺めながら、私は思う。
居場所は見つけるものじゃなくて、育むものなんだ、と。

2010年6月17日木曜日

椅子と女2~砂丘にて

砂丘の向こうには、どす黒い色の海が広がっていた。それはまるで、不用意に手を伸ばしたら、がっぷりと齧り付かれてしまいそうな雰囲気をともなっていた。耳を澄まさずとも響いてくる、轟々と泣くその海鳴りが、あたりを包んでいた。

その時も最初、彼女に椅子に座ってもらった。そうして私は少し離れた場所からファインダーを覗いた。覗いて気づく。違う、何かが違う。

カメラを握ったまま、私はあたりに耳を傾けてみた。風が泣いている。雲が唸っている。海も泣いている。私たちを包み込むあたりのもの、すべてが、泣き叫んでいるかのようで。
あぁ、そうか、だからだ、と納得した。こんな、泣き叫んでいる場所で椅子にきちんと座ってみたからとて、しっくり来るわけがない。

椅子に座っていて、その椅子がそのまま倒れたら。そういう格好をしてほしい、と、私は彼女に頼んだ記憶がある。
彼女は何も言わず、うん、とだけ頷いて、砂の上、仰向けになった。

ファインダーを覗いて、私は自分の中、しっくり来るものを感じた。するとおのずと指がシャッターを切っていた。

私たちの周りに広がる光景すべてが、泣き、唸っていた。空は今にも雨を滴らせんばかりの勢いだった。海は唸り声を轟かせ、風は私たちの頬を嬲るばかり。
そんな中、立つ。真っ直ぐに立つのはまず不可能だった。立つという、ただそれだけの動作が、実はどれほどのエネルギーをともなうものであるのかを、その時改めて思った。

誰も居ない砂丘。私たちはただ、在った。ひとつの染みのように、そこに、在った。

2010年6月16日水曜日

立つ棒

私は海が好きだ。とてつもなく好きだ。いつからそうだったのか、分からない。気づいたときには、海は私にとって、かけがえのない存在だった。
幼い頃私は泳げなかった。泳げない自分が悔しくて悔しくてたまらなかった。絶対に自分は海と友達になるんだ、と、勝手に私は思っていた。それもあって、小学生になってしばらくして、体育の先生に無理矢理頼んで、夏期の水泳選手コースに入れてもらった。そのおかげで、私は泳げるようになり、その頃の私の夢といえば、将来は海女になるのだ、というものだった。

その日は、ちょうど台風が通り過ぎた直後の晴れ日だった。海にはまだ、ごう、ごごう、と、台風の爪痕が残っていた。そんな海にぽつり、立つものが在った。
一本の、鉄の棒だった。
これが一体何に使われるのか、まったく想像できなかった。近くに他に何かあるわけでもない。ただ一本、こうして棒が立っている。それだけ。
私はしばし、その棒に見入っていた。

岩に突き立てられた棒切れ。鉄の棒で、すっかり錆び付いている。にも関わらず、その棒は真っ直ぐに、天に向かって立っていた。
波が大きく打ち付けてきても、微動だにしないその棒切れは、私の目の中で徐々に徐々に大きな姿になっていった。気づけば圧倒的な威風を放って、そこに在った。

空には雲がびゅんびゅんと飛びすさび、波は白い飛沫を上げて何度でも打ち付けてくる。そんな中、ただ一人動かない者。

あぁ、こんなふうになれたら、と思った。誰が何をいようと、何をしようと、揺るぐことなくその場所に立ち続けていられる、そんな人間になれたら、と。

棒はそうしてただじっと、そこに、在った。

2010年6月13日日曜日

椅子と女~砂丘にて

その場所を知ってから、私は一年か二年に一度は訪れる。それまで砂丘というものを、写真や絵の中でしか私は知らなかった。だからかもしれない、さして惹かれる場所でもなかった。けれど、実際にそこを訪れてみて、それがどれほどの圧倒的な景色であるのかを知った。真っ直ぐに伸びる水平線を、こんな近くの場所で見ることができるなど、それまで私は想像もしなかった。
その景色に魅せられ、以来私は、時折この場所を訪れる。

彼女と砂丘を訪れることになって、何となしに椅子が欲しいと思った。そう、折り畳める、小さなサイズの椅子。
オークションで探したら、偶然にも、明治時代に建てられた家屋からの掘り出し物というちょっと傾いだ椅子を手頃な価格で見つけた。一目惚れして、即決した。
その椅子を担いで、撮影場所の砂丘に向かった。

その日、砂丘には、砂紋よりも足跡の方が多くて。でもその夥しい足跡に私はちょっと圧倒された。まるで軍隊がここを通り過ぎたかのような有様だった。
はっきりしない天気だった。雨が降りそうな気配はするものの、時折雲が途切れ、流れてゆく。それは本当にぐいぐいと流れてゆく。それほど風が強く吹き付けていた。

最初、椅子を立てて、彼女にはその横にかがみ込んでもらって一枚を撮った。
でも、何だろう、違和感が残る。
そうして、ふと思いついて、椅子を倒してみた。

雲はうねっていた。風は唸っていた。沈黙しているのは砂丘と、彼女と椅子と、私だけだった。
そして砂の丘の向こうでは、海が轟々と泣いていた。

2010年6月10日木曜日

水鏡

それは桜の花の季節だった。山奥の公園へ、二人で出掛けた。彼女も私も、もうだいぶ薄着だったことを覚えている。
行き止まりの道を何度か行き来した。そうして辿り着いた公園には、大きな大きな池があり。そのほとりでは家族連れが水遊びをしていた。

彼女の瞳は大きい。とてもくっきりと、大きな目をしている。見つめるとごくんと飲み込まれそうなほど、印象的な目だ。でも、体はとても小さく、私よりひとまわりは小柄なのだった。
なで肩で、細い手足。でも何だろう、決してか弱そうな雰囲気ではなく。凛とした強さをいつも秘めていた。

だからかもしれない。私はとても、彼女に惹かれていた。彼女の、常に湧き出てくるエネルギーに惹かれていた。でもそれは決して、無条件に湧き出てくるものではない。彼女が切磋琢磨して、彼女が押し出してくる力。だからこそ、それは輝いていて。
だから私は、彼女に惹かれていた。

空は高く高く澄んで、風が小さな雲の切れ端を流していた。
鳥の囀る声が何処からともなく響いてくる、そんな場所だった。

そしてそれは、公園の端の方にあった。ぽつねんとあった。いつから溜まっていたのか分からないほど、苔むした水が、そこには溜まっており。
空から降り注ぐ陽光を、きらきらと反射させていた。

小柄な彼女にのぼってもらい、一枚撮った。
水鏡はまるで私たちを吸い込みそうなほど深く深く深く、そこに在り。
ふと思った。私たちは何て小さいのだろう、と。
この水溜りの深遠に比べて、私たちは何て小さいのだろう。
だからこそ足掻くのかもしれない。私たちは。

散り落ちる花びらが、吹雪のように舞っていた。

2010年6月8日火曜日

滑らかな腕

私の腕は、傷だらけだ。
一時期、これでもかこれでもかというほど、自分で自分を切り刻むしかできなかった時期があった。その名残で、私の腕は、目を瞑って触っても傷跡が分かるくらいに、でこぼこしている。

今時折、その頃の私の年頃の子から、声が届く。私もそうした勲章が欲しい、と。
私の傷跡は勲章なのだろうか?
或る意味で、そうなのかもしれない。その傷を負ってしか、生き延びることができなかった時間があった。その時間を越えてくることができた、という意味で、勲章なのかもしれない。でも。

傷は傷、だ。
もう二度と元の滑らかな腕には戻れない。

だから私は、そうした声が届くたび、小さく笑う。他にどんな表情をしていいのか分からないから、小さく笑う。何処へ向けてでもなく、小さく。
そうして思う。
これがたとえ勲章だとしても。私はあなたの今の滑らかな腕に憧れるんだよ、と。

後悔しているわけではない。あの頃はああしてしか私は生き延びることができなかった。だから、こうなってでも生き延びてこれたことを、今は誇りに思う。
それでも。
私は滑らかな腕を見ると、眩しくて眩しくて。あぁよかった、と思うのだ。
この腕が滑らかで、本当によかった、と。

2010年6月6日日曜日

三つ編み

私はいつの頃からか髪の毛を伸ばしていた。でも何故だろう。母に髪を結ってもらった記憶は、殆どない。

私の母も小さい頃から髪が長く、いつでも二つに分けて三つ編みにしていたのだという。それは腰に届くほどの長さで、クラスの誰よりも、長かったとよく母自身が言っていた。ちょっとでも髪を切ると、母の父親は機嫌が悪くなり、二、三日口をきいてくれなくなるほどだったという。

うまく言えないが。私はそんな母に似たかった。似たいが為に、髪を伸ばした。髪を伸ばして、同じように三つ編みにして、少しでも母に似ていると、誰かに言われたかった。
私は言ってみれば、みそっかすだった。
いつでも家族の輪から外れていた。だから。
だから、せめてそのくらいでも似て、あぁやっぱり母の娘なのねぇと、認められたかった。誰かに。

結局それは叶うことなく年は過ぎ。私はいつのまにか娘を持つ頃になっていた。
娘は、たいてい自分で後ろに一つに髪の毛を結わく。そうしてたまに、「ママ、今日は髪の毛三つ編みにして」だとか「二つに結って」と頼んでくる。
娘の髪はまだ幼い髪の毛で。さらさらさらさらと流れ、結うには柔らかすぎるほどで。だから私は気をつけながら、髪を櫛で梳き、結わく。

そうして娘の三つ編み姿を見る度思う。
三つ編みなんかにしなくたって、あなたは私の娘だわ、と。

2010年6月3日木曜日

一枚の葉

その日、私は敢えて、道のない場所を歩いていた。生い茂る草を掻き分け、自分で道を作ってゆく。私の歩いた痕には、微かながら細い道ができている。
そうやってほぼ一日、歩いていた。

分け入りながら、いろいろなことを考えていた。たとえば道を作る、ということ。私はこれまで生きてくる中で、どれだけ自分で道を切り拓いてきただろう、と。
よく考えてみれば、ずいぶんと誰かに作ってもらった道を歩いてきたもんだ、と思う。その殆どが父母だ。父母によって作られた道を、私は長いこと歩いてきた。

それは決して平坦な道ではなかった。他人に作ってもらった道なのに、平坦ではなかったというのはおかしいかもしれないが、でも、そうだった。これでもかこれでもかというほど、険しい道だった。
そして私はその頃、何の疑問ももたず、父母に愛してもらいたいがために、必死にそこを歩いていた。

だから余裕なんてなかった。道を楽しむ余裕なんて、何処にもなかった。傍らに花が咲いていようと、蝶が飛んでいようと鳥が旋回していようと、そんなことお構いなしだった。とにかく歩け、歩け、歩け、だった。
今思えば、もったいないことをしたなぁと思う。

その呪縛をようやく解いて、歩き出してみれば、これもまた歩きづらいことこの上なく。でも。
でも、楽しいのだ、道を作ることは。いつでもそこにはどきどきがあった。新しいどきどきが。兎が横切り、花が揺れ、枯葉積もる中、分け入り道を切り拓く。それはいってみれば、誰のものでもない、私だけの道であり。

時にはこんなものにも出遭う。はらりと落ちた枯葉。もう樹の元では役目を終え、散り落ちた枯葉。まだ朽ちてもいない、きれいな形を残した枯葉。
そこには、朝露が数粒、ついていた。その朝露をじっと見つめていると、世界が丸く、歪んで、その朝露の中に在るのが見えた。
そういえばどこかで読んだことがある。世界は円環を為している、と。インディアンの酋長だったかの言葉だった。すべてが丸く、何処までも繋がっている、と。
この枯葉もいずれ朽ちて、土に還り、再び樹の栄養となって、何処かしらの葉の一部に戻ってゆくのだ。
私の命が誰かに、継がれてゆくように。

2010年6月1日火曜日

苔むした、

街中に住んでいると、苔というものには殆ど出遭わない。よほど年季の入った公園の、水場などでない限り、出遭うことは、ない。
でもその場所は鬱蒼とした森の中の別荘地で。といっても、小さな山小屋がぽつりぽつり建っている程度の場所で。
道もだから、数年前まで砂利道だった。泥道だった。少し放っておけば、草がぼうぼう生えてくるような、道ばかりだった。
そんな場所では、コンクリートまでが苔むしてゆく。

誰が為したわけでもない。時間がそうさせた。長い時間が、そうさせた。
苔はびっしりとコンクリのブロックを覆い、もはや周囲の土と同等の色合いをしていた。ちょっと見には、見分けがつかないほどで。

年月が、そこに在った。決して人の世界では営み得ない速度での、長い年月が、そこに横たわっていた。
もう誰の目にも留まることはないような、そんな代物だった。

穏やかに穏やかに、侵食されていったコンクリ。人の手では為しえないものが、そこに、在った。