2010年6月3日木曜日

一枚の葉

その日、私は敢えて、道のない場所を歩いていた。生い茂る草を掻き分け、自分で道を作ってゆく。私の歩いた痕には、微かながら細い道ができている。
そうやってほぼ一日、歩いていた。

分け入りながら、いろいろなことを考えていた。たとえば道を作る、ということ。私はこれまで生きてくる中で、どれだけ自分で道を切り拓いてきただろう、と。
よく考えてみれば、ずいぶんと誰かに作ってもらった道を歩いてきたもんだ、と思う。その殆どが父母だ。父母によって作られた道を、私は長いこと歩いてきた。

それは決して平坦な道ではなかった。他人に作ってもらった道なのに、平坦ではなかったというのはおかしいかもしれないが、でも、そうだった。これでもかこれでもかというほど、険しい道だった。
そして私はその頃、何の疑問ももたず、父母に愛してもらいたいがために、必死にそこを歩いていた。

だから余裕なんてなかった。道を楽しむ余裕なんて、何処にもなかった。傍らに花が咲いていようと、蝶が飛んでいようと鳥が旋回していようと、そんなことお構いなしだった。とにかく歩け、歩け、歩け、だった。
今思えば、もったいないことをしたなぁと思う。

その呪縛をようやく解いて、歩き出してみれば、これもまた歩きづらいことこの上なく。でも。
でも、楽しいのだ、道を作ることは。いつでもそこにはどきどきがあった。新しいどきどきが。兎が横切り、花が揺れ、枯葉積もる中、分け入り道を切り拓く。それはいってみれば、誰のものでもない、私だけの道であり。

時にはこんなものにも出遭う。はらりと落ちた枯葉。もう樹の元では役目を終え、散り落ちた枯葉。まだ朽ちてもいない、きれいな形を残した枯葉。
そこには、朝露が数粒、ついていた。その朝露をじっと見つめていると、世界が丸く、歪んで、その朝露の中に在るのが見えた。
そういえばどこかで読んだことがある。世界は円環を為している、と。インディアンの酋長だったかの言葉だった。すべてが丸く、何処までも繋がっている、と。
この枯葉もいずれ朽ちて、土に還り、再び樹の栄養となって、何処かしらの葉の一部に戻ってゆくのだ。
私の命が誰かに、継がれてゆくように。