2010年9月12日日曜日

海辺にて

その一歩、その一歩を踏み出すことができない。そういう時が多々ある。
たった一歩だ、たった一歩じゃないか、と自分を鼓舞するのに、足が動かない。体全体が鉛の塊になったかのように重くて固くて、ぴくりとも動いてくれない。
そういう時が、ある。

そんな時、いつも思い出すのは、仏蘭西のとある映画監督の言葉だ。
「絶望の先にこそ、真の希望が在る」

それでも。踏み出せないまま、泣き崩れ、倒れ付すことが多々あった。もうこのままでいいよ、動けなくてもいいよ、このまま腐ってなくなってしまっても、それはそれでもう諦めがつく、と。

でもそこで、はたと気づくのだ。諦めがつく? 本当に? 本当に諦められるのか? と。
諦められないからここまで足掻いて来たんじゃなかったのか? 諦めきれないから、こんなにもみっともない姿を晒してまで、ここまで生きてきたんじゃなかったのか?
自問自答はそうして激しくなってゆく。

頭を掻き毟り、もう放っておいてくれ、と叫びたい衝動に駆られる。でも本当は、本当は、放っておいてなんてほしくないのだ。構ってくれとはいわない、せめて、見守っていてくれ、と、本当はそう言いたいのだ。分かってる、分かってる分かってる!
幾重にも切り刻んだ腕からは血が滴り落ち、床に広がる血の地図は、何を描こうというのだろう。ぼんやりと、赤黒いその血だまりを見やりつつ、知るのだ。
もう何処にも逃げ場所なんてない、と。

そう、ここまで生き延びてきたのが自分なら、ここから先を歩いていくのも自分しかいないのだ。私の人生は私だけのもので、私が主人公で、その主人公が舞台から降りたら、もう二度と幕は開かない。
そして知るのだ。自分の本音を。私はまだ、人生から降りたくない。降りたくなんかない、という自分の本音を。

この先に、光があるのか、闇があるのかさえ分からない。それでも。
「絶望の先にこそ、真の希望がある」、その言葉を支えに、私はまた今日も、一歩を踏み出すんだろう。そこがもしかしたら、針山かもしれないし、底なし沼かもしれないし、そんなこと分からないけれど、それでも。

生きる。それはとてつもない作業で。でもだから、生きるのだ。今日も明日も明後日も。この先にきっと、希望が待っている、と信じて。