2010年9月17日金曜日

私は、あまり花の写真を撮らない。花は眺めるもの、というような意識が頭の何処かにあって。だから、写真に撮る、ということに繋がることが少ない。
実家の母の庭はいつだって、何かしらの花が咲いていた。春でも夏でも秋でも冬でも。何処かしらに何かしらの花が、ちょこねんと咲いている。そういう庭だった。
そんな中で育ったせいなのか、母の庭の花の色や香りで、私は季節の移ろいを知った。母が菫を植える、母がラヴェンダーの世話をする、母が梅の実を?ぐ、母がブルーベリーの実を取る、母が鉄扇の蔓を窓に這わす。そんな諸々の、母の作業で、あぁいまはいつなんだ、というのを知った。
だからというのもおかしいかもしれないが、カメラをわざわざ向ける対象ではなく、花はあくまで眺めるもの、愛でるもの、として私のそばに在った。

今、こうして実家から遠く離れて暮らすようになり、あの頃どれだけ自分が恵まれた環境にあったのかを思う。
母の営む庭に、私が実はどれだけ支えられていたのか、そのことを、強く強く感じる。
母や父が寝静まった後、私はよく自室の出窓に座り込み、窓を開け放して、庭をじっと見下ろして過ごしたものだった。窓のすぐ横には大きな金木犀の樹があって、季節になるとこれでもかというほどの香りを放った。正面には私の誕生樹のひとつ、梅の樹があって、それは暗闇の中でも黒々とその幹の存在を私に知らせていた。色とりどりのパンジーやデージー、ラヴェンダーたちは、闇の中でもほんのり光を放ってそこに在った。泣きながらそれらを眺める夜もあれば、謳いながらそれらを眺める夜もあった。
花はいってみれば、私の生活の一部、だった。

今、僅かながら、私もベランダで、薔薇を育てている。そう、それは、事件に遭った後のことだ。ある日突然、白い薔薇がここに欲しい、そう思った。家から出ることもままならず、食をとることも眠ることもままならない日々の中で、突如、そう思った。そして花屋に飛んでゆき、十本の白薔薇を買った。それを挿し木にし、ひとつひとつ、育て始めた。
あの時、何故突然、白薔薇がここに欲しい、なんて思ったのだろう。よく分からない。でも、多分それは、私の昔からの生活に、花が在ったからなんじゃないか、今はそう思っている。

そして今も私の小さなベランダには、いろんな種類の薔薇が、ちょこねん、と、在る。