2010年9月20日月曜日

座るという言葉を思うとき、私にはひとつの映像が浮かぶ。実家の自室にあった大きな出窓だ。夜中眠れなくて、その出窓に毛布をひっぱり上げ、そこにぺたんと座り込んでは外を眺めて過ごした。その時の映像だ。
まだ夜の早い時間には、通りを行き交う車のヘッドライトが、くわんと天井を這って、消えていった。誰も通りを通らない夜遅くの時間になると今度は、母の庭の植物たちが、語らいを始めた。それはとても小さなひそひそ話で、だから私がよほど耳を澄まさないかぎり聴こえないのだったが。でも、私はそのひそひそ話に聞き耳をたてるのが大好きだった。そうして朝までじっと、出窓に座って過ごしたことが、一体何度あったことか知れない。

ざわざわと金木犀を揺らす風の音。ミモザの枝を揺らす風の音。ラヴェンダーの上を渡ってゆく風の音。同じ風のはずなのに、みんなみんなそれぞれに違う音色をしていた。花たちも、昼間陽光によって露にされるのと違い、闇の中にほんのり灯る明かりのようで。私はそんな、やわらかい花の輪郭が大好きだった。昼間だったら、輪郭が露になり、ぶつかりあい、押しのけあう人、人、人。それが、適度に溶け合って、共存しあって、そこに在る、そんな気がして。

どうしてもっとやさしくなれないんだろう。どうしてもっと強くなれないんだろう。どうしてもっと。どうしてどうしてどうして。
私は出窓に座りながら、いつもそんなことを思っていた。人が二人居れば自然に生じてくる軋轢に、私は正直悲鳴を上げかけていた。でももし悲鳴を上げたら、実際上げてしまったら。だから私は出窓に座り、自分の心を浄化する時間が必要だった。

座る。いや、座るというより膝を抱えて丸くなるというその形は、私をそれだけで安堵させた。膝頭に当たる胸のところで、とくん、とくん、と心臓の鳴る音が響いていた。私はちゃんと生きてる。大丈夫、生きている。私はそのたび、確認した。

夜が明けてこようとする頃、ようやく丸まっていた体を伸ばし、空を見上げた。私の昨日と今日はたいてい、連続して、終わりのないものだったが、それでも、あぁ今日がやってきた、と思い、そのことに背中を押される感じがしたものだった。

今もう、実家には、あの出窓は、ない。