2010年9月29日水曜日

私が子供の頃、住んでいた町は、まだ砂利道で、空き地や山が周囲に在った。そのせいか、薄もたくさんあって、野原で遊ぶと必ず、薄の葉で手足のどこかを傷つけたものだった。
今、薄に出会うことが、本当に少なくなった。私の町には少なくとも、薄が群生しているところなど、どこにもない。
わざわざ電車に乗って、遠くの町外れへ行き、そこでようやく見つける、といった具合だ。

薄の穂、というと私は一番に、ふくろうを思い出す。
じいちゃんがよく作ってくれたのだ。
その頃、じいちゃんの家は千葉にあった。駅からじいちゃんの家に行くまでの、近道に、ちょっとした山道があって、そこには薄がたくさん生えていた。だから私と弟は、必ず薄の穂をたくさん抱えて、じいちゃんの家に行ったものだった。
するとじいちゃんは、待ってましたとばかりに、薄の穂を器用に編んでゆく。見る見るうちに、ぷっくりふくらんだふくろうが、出来上がっている。私と弟が、紙に書いた目をくっつければできあがり、だ。

あのふくろうたちは、あれから何処に消えたのだろう。私たちは必ずといっていいほど、じいちゃんの家から帰るときには、ふくろうの存在をすっかり忘れて、手ぶらで帰ってしまっていた。そしてまた次来ると、新しいふくろうを、作ってもらっていた。
片付けていたのはじいちゃんか、それともばあちゃんか。きっと苦笑しながら、仕方ないねぇ、まったく、なんて言いながら、片付けていてくれたに違いない。

娘に、薄って知ってる?と尋ねたことがある。何それ、と首を傾げられた。そりゃそうだ、この町に薄がないのだから、図鑑でも広げない限り、知ることはないんだろう。
なんだかちょっと、寂しい気がした。
そうやっていろんなものが、消えてゆくのだろう。徐々に徐々に。私たちの周りから。
自然と共棲していた頃の記憶など、きっとやがて、遥か彼方になってしまうに違いない。それが、寂しい。