2010年10月12日火曜日

走る

ちょうど工事中で、垂れ幕が張り巡らされている地があった。これからどんな建物ができるんだろうね。そう言いながら、私たちはそれを眺めていた。

ふと思いついて、彼女に声を掛けてみる。
走ってみようか。
声を掛けた途端、彼女は走り出した。一気に走り出し。あっという間に先の方へ消えていった。一瞬の出来事だった。

被害者に対して、よく、「いつまでおまえはそのことを引きずっているんだ」とか「いつまで被害者ぶっているんだ」と言葉を振り回す人がいる。
だが、私は言いたい。
たとえば被害者当人がその傷を受け入れ、乗り越えたとしても、被害者が被害者であったことに変わりはなく。その事実は消えないのだ。
そしてまた、そのことを振り切りたい、もう自由に生きたいと誰よりも誰よりも、そう、他の誰よりも願っているのは、被害者当人なのだ。
そのことを、忘れて欲しくない。

五年、十年、十五年、二十年。それだけ時間が経てば、被害から立ち直るのが当たり前だろう、と人は考えるかもしれない。
でも、そんな容易なことじゃないのだ。
たとえ表面的に、当人が元気に見えたとしても、その奥底には、傷が横たわっている。
その傷と共存しながら生きているのが、被害者の姿だ。

懸命に、懸命に、共存しようと、日々努力しているのが被害者当人の姿だ。

たとえば治療過程で、セックス依存になる人もいる。自傷行為に走る人もいる。そうやって自分を傷つけながら、それでも何とかここから這い出して、あの光の世界にもう一度出ていきたい、と、そう願っている。
もう一度、もう一度、と、唇噛み締め、必死になって這いずり回っている。

それを、赤の他人が、もう何年経ったから平気だろう、とか、回復しているくせに、とか、簡単に言わないで欲しい。
大丈夫になりたいのは、何度も言うが、被害者当人なのだ。

私は一気に走りぬけた彼女の背中を見、思った。
この傷を、どうか一気に走り抜けて欲しい。何度転んでもいい、何度躓いてもいい、それでも、ここを走り抜けて欲しい。そして再び会うときには、最高の笑顔を、満面の笑顔を見せて欲しい。
心の中、そう祈った。