2010年12月13日月曜日

ガーベラ

湯船に浸かっているMちゃんを撮る際、花がほしいと思った。ちょうど束のように買ってきたガーベラがあったのを思い出し、どかどかと湯船に浮かべた。すると、Mちゃんのやわらかい曲線をもった体と花とが、ちょうどいい具合を醸しだしてくれた。
撮りながら、自分が男だか女なのだか、全然分からなくなっていく感じがした。でも全然いやじゃなかった。気づけばMちゃんはすっかり湯だっており。慌てて撮影を切り上げた。

その後、残ったのはガーベラ。
このままにしておくのはあまりに可哀相だと、私たちは一花一花掬い上げた。
そうして彼女の寝床に、そっと横たえた。

お湯にあてられて、すっかりくたびれた花。でも。
そんな中にあっても、ガーベラという花は凛としている。
決してひしゃげたりしない。何処までも何処までも真っ直ぐであろうとする。

まるで十代の少女のようだ、とその時思った。

こんなふうに何処までも真っ直ぐであれたら。そう思うが、年を重ねる毎に人は覚えてゆくのだ、避け方、転び方、起き上がり方。様々な、生きるための知恵を。蓄えてゆくのだ。そうして幸か不幸か、それなりに器用になってゆく。
生きる、ということに。

人に与えられた時間は、もしかしたらちょっと長すぎるのかもしれない。長すぎるから、途中で撓んでしまったり、折れてしまったりするのかもしれない。

でもそれが、人に与えられた時間ならば。
精一杯、生きるだけだ。撓もうと折れようと、そのぼろぼろになった体躯を引きずってでも、死に向かって一直線、生きるだけだ。
そんなふうに必死に生きた誰かの道の痕には、きっとたくさんの花が咲くに違いない。たとえばこのガーベラも、そんな花のひとつに違いない。