2010年12月29日水曜日

見つめる

私はA子ちゃんと撮った写真の中で、この写真が一番好きだ。
彼女の脆さも強さも共に、その表情に表れている気がして。

彼女のような人が、この日本に、どのくらいいるだろう。
世界で見たら、一体どのくらいに数は膨れ上がるんだろう。

それでもみな、それぞれの位置で、それぞれに必死に今を生きている。
闘っている。
一瞬一瞬を、生き延びるためにただひたすら、闘っている。

そんな彼女たちの存在が、私の背中を押す。
まだいける、まだ大丈夫、まだもう少し、と。
だから私は、倒れ付すたび、もう一度と立ち上がり、歩き出す。

こうした犯罪が皆無になることは、在り得ないだろう。人間が人間である限り、人間はこうした罪を繰り返すに違いない。でもだからこそ。
彼女たちの生き延びて欲しいと私は願う。そうしたことを経てもあなたの魂は光り輝いているのだよ、と、ただそれだけを伝えたい。
そう、どんな重たい枷を引きずることになっても、その胸にある魂の玉は、間違いなく光り輝いているよ、と。

2010年12月27日月曜日

ひとつの影

光と影、というと、たいてい、光はポジティブなイメージで、影はその反対、と言われる。
でも本当にそうなんだろうか。
光の中に影があるからこそ、光はさらに輝く。影の中に光が射すからこそ影の色濃さが浮かび上がる。
両方が両方をそれぞれに支えあっている。
だから私には、光と影というのは、一組で存在しているものだ。どちらかだけでは成り立たない、両方あるからこそ互いを光り輝かせる、そういう存在だ。

あの撮影は確か冬の終わりだった。
だから影も細長く、アスファルトに伸びていて。
私はふと、彼女の足元から伸びるその影に、シャッターを切った。

彼女はその時後ろ向きだったから、私がシャッターを切ったことなど、気づかなかったかもしれない。
でも私には、彼女のその無防備な背中が露に見えており。だからこそ、シャッターを切らずにはおれなかった。

か細い肩、折れそうに細い腕。それらがこれまで背負ってきた荷物はどれほどのものだったろう。
それを思うと、胸が詰まる気がした。
でも、言葉なんて、何の役にも立たず。
だから私はただ、黙っていた。

今日もきっと彼女はこの地平の何処かで生きていて、光と影の中、佇んでいることだろう。どうかそんな彼女にとって、光と影が優しい存在でありますよう。
私は祈る。

2010年12月26日日曜日

ひとり

彼女はひとりで横浜までやってきた。
西の西の町、遠く離れた町から。或る日突然。
最初彼女を見た時、小さな小さなハリネズミのように見えた。全身の針を逆立てて、必死になって外界から身を守ろうとするハリネズミのように。

写真を撮ってください。私の写真を。
そう言って、私の前に現れた彼女は、ゆるぎない瞳を持っている女の子だった。
ここに来るまでに、どんな決意をしてきたのだろう。
私は彼女のその瞳を見つめながら、そのことを思っていた。

近親姦に悩まされ続けた時間。そこから這い出よう這い出ようとしても蟻地獄のようで、繰り返される時間。それでも彼女は、それらの時間を生き延びてきた。
生き延びてきた強さが、彼女には在った。

でもそれは、裏返せば、どれほどに孤独だったろう。
ひとりきりの闘いを、ずっとずっと続けてこなければならなかった彼女。
それを思うと、私は胸が引き裂かれる思いだった。

この写真を撮った場所はもう、今は全く違う風景に変わっている。
空き地だった場所にはビルが建ち、彼女と訪れた時の様子は片鱗も残っていない。
でも。
私の脳裏には、まざまざと今でも浮かぶ。
ひとりきり、闘い続ける彼女の姿が。凛と立つ、彼女の姿が。

2010年12月21日火曜日

終章

物語にはいつでも、終わりがある。
それは写真にもきっと、同じ。

波に飲まれてずぶ濡れになった私と、同じくずぶ濡れのモデルになってくれた彼女と、ぶるぶる震えながら焚き火を囲む。
冬の海は、入っているときはとてもあたたかい。ぬくい。でも一度海から上がると、とんでもなく寒い思いをするのが常だ。この時もそうだった。震えながら、歯をかちかち言わせながら、それでも私たちは何となく、笑っていた。

今日できることは全部やった。
そんな気がしていた。
だから笑えたんだろう。自然に。
笑っていたんだろう。

気づけば夕暮れに近い頃合になっており。
私たちは砂浜で着替えながら、海を見ていた。

どんどんどんどん深く濃くなってゆく海。
まるでそこだけ一段二段、闇が深いかのような。

その時、はっとした。終わりを撮らなくては。と。
その時の私たちにとっての終わりは何だろう。

それがこの一枚。
《地平Ⅱ》の写真たちは、この写真で終わりを迎える。

2010年12月17日金曜日

私は海に行くと、ついじっとしていられなくなる。海に引き寄せられてしまう。引き寄せられて、おのずと入ってしまう。それが冬であっても、いや、冬なら尚更に。

水平線の辺りで燃え上がる雲。低い音を立てて砕ける波。その日の波はまるで怒っているかのようで。
何処までも何処までも、揉み荒れていた。

カメラを持ったまま、一歩、また一歩。引き寄せられるようにして。
私は気づけば、胸の辺りまで海に沈んでいた。カメラを濡らさぬように、ということだけは頭の中はっきりと意識があったが、それ以外は何もなかった。
あるのはただ、
海と私と。それだけだった。

あぁいっそこの海に溶けてしまいたい。
何度思ったことだろう。
でもそのたび、溶けることのできない固い確かな肉体を思い知らされるばかりで。
でもそれは、哀しい、わけではない。
どちらかといえば、多分、嬉しい。
私はまだ生きている、生きなければならないんだ、と、言われているようで。

結局その日、私は頭から大波を被った。咄嗟に振り上げた腕の天辺にはカメラが在り。
不思議とカメラは、殆ど濡れずに済んだ。
でも正直言うと。そのまま泳いでしまいたいくらい、気持ちよかった。

2010年12月15日水曜日

人魚

昔絵本で読んだ、人魚の物語。
それはどんな姿をしているんだろう、それはどんなふうに泳いで、また、陸に上がるんだろう。全てが不思議だった。何もかもが不思議の中にあって、でもだから胸がどきどきした。

その日の撮影ももうじき終わりにしようかと思っていた頃。
彼女が海に入って行った。
そして。
波の届くところにそのまま、横になった。

人魚だ。

そう思った。
彼女の長い黒い服が波に洗われ、揺れて、再び彼女の足に絡みつく。
彼女はただじっと横たわっており。それは誰にも触れられないほど静謐な空間で。
私はファインダー越しに、見惚れた。

耳を澄ますと、どどう、どどう、と繰り返し響く波の砕ける音。
でもその音さえが、彼女の横たわる場所から透明になっていくような、そんな錯覚を覚える。

私はあの日、陸に上がったばかりの人魚を、見た。

2010年12月13日月曜日

ガーベラ

湯船に浸かっているMちゃんを撮る際、花がほしいと思った。ちょうど束のように買ってきたガーベラがあったのを思い出し、どかどかと湯船に浮かべた。すると、Mちゃんのやわらかい曲線をもった体と花とが、ちょうどいい具合を醸しだしてくれた。
撮りながら、自分が男だか女なのだか、全然分からなくなっていく感じがした。でも全然いやじゃなかった。気づけばMちゃんはすっかり湯だっており。慌てて撮影を切り上げた。

その後、残ったのはガーベラ。
このままにしておくのはあまりに可哀相だと、私たちは一花一花掬い上げた。
そうして彼女の寝床に、そっと横たえた。

お湯にあてられて、すっかりくたびれた花。でも。
そんな中にあっても、ガーベラという花は凛としている。
決してひしゃげたりしない。何処までも何処までも真っ直ぐであろうとする。

まるで十代の少女のようだ、とその時思った。

こんなふうに何処までも真っ直ぐであれたら。そう思うが、年を重ねる毎に人は覚えてゆくのだ、避け方、転び方、起き上がり方。様々な、生きるための知恵を。蓄えてゆくのだ。そうして幸か不幸か、それなりに器用になってゆく。
生きる、ということに。

人に与えられた時間は、もしかしたらちょっと長すぎるのかもしれない。長すぎるから、途中で撓んでしまったり、折れてしまったりするのかもしれない。

でもそれが、人に与えられた時間ならば。
精一杯、生きるだけだ。撓もうと折れようと、そのぼろぼろになった体躯を引きずってでも、死に向かって一直線、生きるだけだ。
そんなふうに必死に生きた誰かの道の痕には、きっとたくさんの花が咲くに違いない。たとえばこのガーベラも、そんな花のひとつに違いない。

2010年12月10日金曜日

「視線/私線」より

壊れた。昨日まで座っていたはずの椅子

壊れた。プラットホームに喰い込んだ爪先

壊れた。逆立ちを始めた腕時計

それは今日も、

今日も、今日も、

壊れる、壊れ続ける、

私を取り囲んでいる事象は

妄想に侵蝕され、

赤い靴を履いた踊り子が描く

孤線に沿って、今、

日没が 始まる。

2010年12月8日水曜日

横たわる瞳

まだ私が、モノクロの世界で生きていた頃。
横になることがとてつもなく難しかった。眠るために横になろうと思ってもそれができない。横になることが怖いのだ。無防備な体勢になるのが、とてつもなく怖い。

あの日、私は少なくとも、無防備ではなかったはずだった。それでも襲われた。足掻いても足掻いても、加害者の体はコンクリの壁のように重く、ずらすことさえできなかった。喉から声を出そうとしても、出る声は絞り出された滓かのような、しゃがれた声で、何処にも届きはしなかった。助けてくれるものなど、どこにもなかった。

あれ以来、横になる、という行為が私には難しい。

私の世界にも色彩が徐々に徐々に戻ってきて、光溢れる世界に戻ってきて。それでも。闇の中横たわる、それにはとてつもない抵抗感を覚える。
いや、もうここは安全な場所、ここは私の部屋、誰も入ってきやしない、守られた場所、自分に何度も何度もそう言い聞かせるのに、体は勝手に足掻く。

そうして知った。横になることの重要さ。体を休めることの大切さ。それがなければ、人は動き続けるなんて無理なんだってこと。

Mちゃんの瞳は時々からっぽになる。がらんどうになる。
この時もそうだった。からっぽのまま、かんっと見開かれ、横たわっていた。その時どきっとした。まるで、あの被害を受けた後の、自分の目を見ているかのような気がした。
きっとこんなふうに、空っぽだったに違いない。そう思えた。

2010年12月6日月曜日

人はどんな気持ちの時、涙を流すのだろう。
哀しいとき、嬉しいとき、辛いとき…。
あの時彼女が流した涙は、何色だったんだろう。

夜明けを待って撮り始めた。まだまだ冬の気配が残る季節、薄着の彼女は鳥肌だって、ぷるぷる小刻みに震えていた。
それでも私たちは何だろう、満たされていた。
光に。思いに。

ほろり。
彼女がまた、涙を零した。
ほろり、ほろり。
数粒の大きな大きな涙の粒が、彼女の頬を伝って流れ落ちる。

私はそんな彼女の横顔を、美しいと思った。

私と彼女はそうして、やがて別々の道を往くことになる。
もう二度と、彼女と会うことはないだろう。でもだからこそ私は祈る。
彼女が今その場所で、幸せであることを。満たされてあることを。そりゃぁ背負う荷物はいつだってあるけれど、それでも、生きていくことを諦めていないことを。
ただ、祈る。

2010年12月3日金曜日

横たわり、

その日、午前三時頃から私たちは動き出した。まだ真っ暗闇の中。起き出して、タクシーに飛び乗って、目的地へ。

彼女が何となく手持ち無沙汰でいるのを見て、私は、枕でも持っていく?と尋ねた。
すると彼女は嬉々として、それを抱いた。

朝陽が出るか出ないか、それを見定めて私たちは撮影を始めた。
林立する木立ちの中、てくてくと歩きながら、私は折々にシャッターを切っていた。

彼女がふっと、立ち止まり、徐に抱いていた枕を土の上に置いた。そしてくぅっと小さな息を立てて、目を閉じた。
それがあまりにかわいくて、私はしばし見入っていた。

私の家に逃げ込んでくるまで、彼女は眠れない眠れないと繰り返し言っていた。
でもうちでは、娘以上に大きな寝息を立てて眠ってばかりいた。まるで今まで足りなかった睡眠を、一気に取り戻そうとする勢いで。

眠りは、とても必要なものだ、と今の私なら分かる。眠りがないと、一日が終わらない。一日の区切りが曖昧になって、昨日と今日が一続きになってしまうことさえある。
そうすると疲労がどっと襲ってきて、何をやろうにも気だるく、動きたくなくなる。

どのくらいそうして彼女は横たわっていただろう。
冬の朝。ぐっと冷え込んでいるにも関わらず、彼女はくう、くぅっと静かな寝息を立てていた。

そんな彼女を守るように、朝陽は何処までもやさしく、彼女に木立に、降り注いでいた。

2010年12月1日水曜日

闇の中の向日葵

その日Mちゃんとの撮影で、花をたくさん用いた。その花たちは使用後バケツや花瓶にどっさり入れられて、私の部屋に置いてあった。

ふと転寝から目が覚めて見やると、闇の中、黄色い黄色い向日葵が、ぼんやり浮かんでいる。まるで自ら発光しているかのような、そんな具合に、闇に浮かんでいる。
私は思わず、その花に見入った。

昼間の光の中では決して気づかなかった、この、向日葵自身の持つ光。それはしんしんと沈黙の中に在りながら、堂々とした光だった。

決して周囲を驚かすことなく、侵すこともなく、淡々とそこに佇み。佇みながらその存在感をいっぱいに現わしている。
私はその姿に、魅了された。

闇の中、ただひたすらシャッターを切った。どう撮れているかなんてその時考えなかった。考える隙間なんてなく、ただ向日葵と対峙するために、私は必死にシャッターを切っていた。

花と対等でありたいなんて思ったのは、それが初めてだったかもしれない。

気づけば夜明けが近づき。すると不思議なことに、向日葵の光は徐々に徐々に弱まってゆき。とうとうふつっと途切れた。

あれは何だったのだろう。闇の中で発光する向日葵。
まるで、これが花本来の力なのだと主張するかのような光だった。