2011年8月30日火曜日

幻霧景Ⅰ-15

すうっと風が通り過ぎた後、ふと私は少女に近寄った。
彼女のアップを撮りたいと思ったからだ。
何も云わずカメラを構えたまま私は近づいてゆく。
鼻歌を歌いながら空を見上げていた少女が、私に気づいてじっとこちらを見つめて来る。
気づけば彼女は鼻歌を止めており。ただただこちらを、じっと見つめるのだった。

一瞬こちらが怯んでしまいそうなほど真っ直ぐな瞳。
それは澄み渡る空と同じように透明で。
いとおしかった。

東の空は明るく光溢れ。
さんざめく緑が風にさらさらと揺れている。

2011年8月26日金曜日

幻霧景Ⅰ-14

おもむろに樹に寄りかかる彼女と、高みを見つめる少女と。
彼女らをフレームに捉えながら、私は思っていた。

私たちに懐かしい場所があるとして。
もちろん誰しもにそれは在るだろう。たとえば祖母の庭、たとえば母の懐、たとえば。
でもそうじゃない、もっともっと深い、懐かしいの根底にある何か。
それをどうやったら形にできるだろう。

爽やかな風が鳥たちの囀りを乗せて芝生を渡ってゆく。

2011年8月22日月曜日

幻霧景Ⅰ-13

少女が真っ先に靴をはいた。まだ幼い彼女はこの時、何を考えて何を思っていたのだろう。もしかしたら先ほど約束したアイスクリームのことなど考えていたのかもしれない。
夜明け前からの撮影、疲れたろうに、そんな顔はこれっぽっちも見せず、むしろ少女はうきうきと楽しげに見えた。

すっかり陽射しに掻き消された霧。まさに幻のようにそれは消え去った。
今ここにあるのは流れ往く風と陽射しと樹々と、それらの醸し出す心地よい匂い。
私たちは誰ともなく深く深呼吸していた。その匂いを胸いっぱいに吸い込んで。
見上げる空は、水色の水彩絵の具をざっと平筆で引いたみたいに美しかった。

2011年8月17日水曜日

幻霧景Ⅰ-12

気づけばすっかり夜は明けており。燦々と降り注ぐ陽射しが眼に眩しかった。
そろそろ撮影も終盤。三人が三人とも、口に出さないけれどそれを感じていたのだろう。
林の端に位置する小さな丘の中ほどに、一本の樹が立っており。二人はその樹に今寄りかかっていた。
その樹は他の樹とは種類の異なる樹で。一本だけ、大きく大きくそこに茂って在るのだった。

三人共、足の裏はもうすっかり泥だらけで。でも、その泥だらけの足がなぜか心地よいのだった。土は肌にやさしい。私にはそう思える。

2011年8月12日金曜日

幻霧景Ⅰ-11

この年、蝉が実にたくさん羽化していた。
この朝も、あっちこっちに脱ぎ捨てられた蝉の抜け殻が転がっていた。女の子がそれを、ひとつ、またひとつ、拾ってはポケットにいれてゆく。
撮影が終わる頃には、その抜け殻はポケットの中、くしゃくしゃになっているのかもしれない。それでも彼女は、ひとつ、またひとつ、ポケットに抜け殻を入れてゆく。大事そうに。

その時ふわぁっと東からの陽光が弾け。少女の髪がきらきらと輝いた。まさに天使の輪がその髪を彩っていた。

2011年8月8日月曜日

幻霧景Ⅰ-10

靄につつまれていた風景が露わになり、緑の芝がくっきりとその姿を現し出した。そこに横たわる二人。
しんしんと、静かな時間が流れていた。

そういえば花がないね。そんなことを彼女が呟き、私は辺りを見回した。あぁ季節の狭間のせいかもしれない、花らしい花が今咲いていない。改めて気づく。
夏の終わり、少女はふとしたときに物憂い眼差しをしてみせる。まだそんな年齢でもないだろうにと思った直後、思い直した。
この一瞬、一瞬のうちにも、彼女は成長しているのだ。そう、この撮影の間にも。

2011年8月5日金曜日

幻霧景Ⅰ-09

この頃私はまだ、自分の腕を切り刻んでしか今日を越えることができない位置にいた。
そんな私にとって、「暗室」が味方だった。
自傷の発作の波が襲ってくる、その予感を感じたらだから私は、速攻で風呂場に飛び込み、暗室を作り、プリント作業を始めた。
その作業だけが、私を、自分の腕を切り刻むことなしに夜を越えさせる、唯一の術、だった。
だからかもしれない。
時間を見つけては、彼女らをフィルムに刻み込んでいた。彼女らの季節季節に立ち会い、フィルムにその姿を刻み込み、プリントしていた。

そんな私の隠した姿を責めることもなく、彼女らはいつも、付き合ってくれた。

夜明けからだいぶ時が経った。だんだんと肩に背中に、東から真っ直ぐに伸びて来る陽ざしを感じるようになっていた。それは一刻一刻強くなってゆく。
そんな光溢れる中、私達は佇み、歩き、歩いてはまた佇んでを繰り返していた。

2011年8月1日月曜日

幻霧景Ⅰ-08

写真を撮らせてもらうとき、必ず確かめることがある。
「裸足になってもらえますか?」ということ。
それがアスファルトだろうと土だろうと、裸足の足で歩いてほしい、それを撮りたい、というのが私の中に在る。

直に感じてほしいと思うのだ。
アスファルトならアスファルトの固さを、土なら土のぬくみを、肌で直に感じてほしいと思うのだ、せめて撮影の間くらい。
人はいつの間にか、何枚も何枚も衣を着こんで、肌で世界に自然に触れる部分がどんどん減って来ているように思う。
別に裸になればいいとは思わない。ただ。
世界の呼吸を、鼓動を、自然の呼吸を温度を、感じることは忘れてほしくない、と思う。
だからもちろん撮影している私も裸足だ。
カメラを持ちながらぬかるみでつるりんと滑りかけること多々あるが、それでも、彼女らと同じように裸足になり、走り回り、這い回り、そうやって、撮り続ける。