2011年10月26日水曜日

本出版の御案内



このたび、窓社より「声を聴かせて~性犯罪被害と共に、」
を出版いたしました。

性犯罪被害者の方にモデルになって頂きながら続けてきた「あの場所から」や
性犯罪被害者サポート電話「声を聴かせて」の活動を通じて知り合った
「彼女」や「彼」らの物語を、ひとつの本に編みました。

「彼女たちは、今あなたのすぐ隣にいるかもしれない。いや、
そもそもあなたが、明日彼女たちになり得てしまうかもしれない。
誰もが「彼女」や「彼」になり得るのだ、一瞬後には。
そのことをどうか、忘れないで欲しい。
そしてあなたの隣にいる彼女たちに、そっと手を伸ばして欲しい。」(あとがきより)

そんな願いを込めて作った一冊です。

ぜひ多くの方に手にとって欲しい。そう願っています。
大型書店で取り扱いもしておりますが、
私の方から直接お送りすることもできます(送料無料)。
http://koebook.cart.fc2.com/

あなたへ、彼女へ、彼へ、
そしてあなたの隣にいる人へ・・・
どうか届きますよう。

どうぞよろしくお願いいたします。

2011年10月21日金曜日

雪ん子ちゃん

ぱんっぱんに膨らんだほっぺたをして、その子は私の目の前にいた。私がかつて小さい頃に来ていた上着を着て、ちょこねんとその子は立っていた。

目の前にいるのは私の娘。
でも何だろう。その子は私の娘でありながら同時にどうしようもなく他人で、どうしようもなく遠く、手の届かないところにいるかのようだった。

娘を産んだ時、その瞬間思った。あぁ、他人なんだこの子は、と。おかしな言い分かもしれない、でも私はそう思ったのだ。
よく、我が子は分身、と言う人がいる。そんな言葉をよく耳にする。私はだから、そうじゃなくてはいけない気がしていた。分身のように我が子を思わなくてはならないのだ、と。でもそれは、虐待を受けて育った私には重荷となって圧し掛かっていた。
だから。
あぁ他人なんだ、私とは全く別個の人間なんだ、ということに気づいた瞬間、私はほっとしたのだ。この子は私とは全く別個に生を受けてこの世に生まれてきた、虐待の連鎖なんてものとは関係なく新たに生まれ出てきたのだ、何も心配することは、ない、と。

育てながら、いつもそこには発見があった。私の目線で見る事と、その子の目線で見るものとは全く別個の見え方をした。だから、私はそれを発見するたびに驚いたものだった。このリンゴは私には紅く見えても、この子には緑に見えるのだ、というかのように。

そんな驚きに塗れていたら、虐待なんていう心配はどこかへ消え去っていった。そんなことを心配している隙間さえないほど。

虐待の連鎖。よく言われる台詞だ。そんな言葉が在るが故に、私たちのように虐待されて育った人間は恐れ慄いてしまう。自分もまた虐待したらどうしよう、同じことを繰り返してしまったらどうしよう、と。委縮してしまう。
でも。
新しい生命を、そのままに受け取れば、何も怖いことなどなかったのだ、と、この子が教えてくれた。まっさらな気持ちで始めれば、何も怖いことなどなかったのだ、と。

今私の目の前にいる我が子は、私が幼い頃着ていた服を着て立っている。その姿は私の幼い頃に何処か似ているけれど、でも同時に全く違う。
この子はこの子。唯一無二の存在。
私の分身などでは、決して、ない。

2011年10月18日火曜日

落書き

あの日実家の近くの公園で、娘と二人、何をするでもなく過ごしていた。
ふと目を離したすきに娘が棒を拾って来て何やら地面に描き始めた。

何描いてるの?
私が尋ねると、娘はにかっと笑った。
何描いてるの?
私はもう一度訊いてみる。
娘はやっぱり、にかっと笑うだけだった。

しばらくして、地面には大きな大きなぐねぐねした模様が描き出されており。私はそれをあっちこっちの角度から見て回って、ようやく納得した。
あぁ、裏山の葡萄の樹ね?
娘はやっぱり何も言わず、にかっと笑うのだった。

あの日、私にとってその場所はとても嫌な記憶があるばかりの公園で、娘と二人、何をするでもなく過ごしていた。
そんな時娘が描き出した幾何学模様。娘はただにかっと笑うだけで。
でも何だろう、私はほっとしたのだ。私にとってどうかは置いておいて、娘にとってこの場所は嫌な場所でも何でもなく、ただの小さな公園であったことに気づいて。

そう、記憶は何度でも塗り替えられる筈。娘に寄り添って娘の描いたぐにゃぐにゃ模様を眺めながら私は自分に言ってみる。
嫌な記憶でもきっといつか、おだやかな記憶に変えてみせる。

2011年10月13日木曜日

シャボン玉

省みると、私は娘に、おもちゃらしいおもちゃを買ってやらなかった。
家にあるのはだから、手作りのおもちゃばかりで。
その中でもシャボン玉は、いっとう娘の好きな遊びものだった。

その日風が強く吹いており。それなのに保育園から帰った娘は、シャボン玉をやるんだと言ってきかない。
仕方なくベランダに出て、10分だけだよ、と指切りをする。

娘のシャボン玉は娘が息を吐いて生まれ出た瞬間、強風に煽られ飛んでゆく。その様が娘にはとても新鮮に映ったのか、繰り返し繰り返しシャボン玉を生み出す。

日も傾き始め、約束の10分はとうに越え。
ねぇ、もう終わりにしようよ。
やだ。
でも約束したじゃない、10分って。
でもね、シャボン玉が呼んでるんだよ。
呼んでる?
うん、お月様を呼んでるんだよ。
え?
シャボン玉が、丸いお月様出て来いって呼んでるんだよ。

娘の言葉にはっとして空を見上げれば、細い爪の先ほどの月が西の空に浮かんでいるところで。私は娘に言う。
今日のお月様は、細いお月様だよ。
ううん、違うの、丸いお月様がじきに生まれるんだよ。
生まれるの?
そう、だから今日はお月様の夢を見るんだよ。

娘の言い分はすさまじく飛躍しており。私は眼を白黒させながら、そうか、そうなのか、と頷いた。本当は首を傾げたかったが、それはしてはいけないことのように思えて、私は必死になってうんうんと首を縦に振った。

あの日、本当は娘は何が言いたかったんだろう。
お月様の夢を彼女は見たのだろうか。それはどんな夢だったのだろう。

シャボン玉とお月様。
儚く生まれ、儚く消えて。
重なり合うその姿。
私も、お月様の夢をいつか、見てみたい。

2011年10月11日火曜日

つるかめ屋

その街はどちらかといえば夜の街だった。夜大勢の飲んべぇ客が集い、これでもかというほどに賑わう。そういう街だった。
私はその街をよく訪れた。真夜中にこっそりひとりで訪れる時もあったが、その殆どは客が引けた明け方だった。
始発に乗ってことこと電車に揺られて出掛けてゆくと、たいてい野良猫が出迎えてくれた。明け始める街に向かって、私は好き勝手にシャッターを切って過ごした。

或る時、小さな小さな店の前に猫が戯れており。私はあまりにその姿が可愛くて立ち止まった。そんな私に声を掛けてきた人がいた。つるかめ屋のおばさんだ。
おばさん、正確にはおばあさんと言うべき年頃のその方は、にこにこ笑いながら私に突然菓子パンを差し出した。
朝からご苦労様ねぇ、おなか空いたでしょ、これお食べ。
そう言って差し出す菓子パンはあんぱん。私は吃驚しながらも、ありがとうと受け取る。
すると、こっちにいらっしゃい、と手招きするおばさん。

細い小さな造りの店の中は散らかし放題で。テーブルの上に土足の猫がどかどか上がっては丸くなっている。おばさんはその傍らで握り飯とあんぱんを食している。

いつのまにかおばさんの身の上話になっていた。戦争のこと、生きて帰ってきた旦那は早々に癌になり死んでいったこと、店をきりもりしていた時代のこと、おでんやから飲み屋へそうしてやがて閉店、今じゃ誰にも忘れられたひとりぼっちの身の上だということ。おばさんはからからと笑いながら、そういった一連の話を私に聴かせてくれた。
どこまでが本当でどこまでが作り話なのか、そんなこともうどうでもよかった。おばさんがそうやって私に向かって話しかけてくれること、それだけは間違いなく真実で。
だから私は、ただ耳を傾けた。

おばさんが最後にぽつり、言った。
この街も変わった。もう私の居場所はないよ。寂しいねぇ。

おばさんの話が終わる頃にはもう、すっかり日は高く昇り。私はありがとうございましたと店を出る。

あの日、この店で撮ったこの写真を必ず渡しに来ると約束した。でも。
数ヵ月後、この場所にやってくると、この場所は空っぽだった。

結局私はおばさんに写真を渡すことができぬまま。今日に至る。あの場所につるかめ屋はもうない。でも私の記憶の中、確かにつるかめ屋はここに在り、おばさんは生き続けている。

2011年10月7日金曜日

泣いていた

その人は泣いていた。朝靄の中、ひとりぽっちで。

その日、ずいぶん早く目覚めた私は、時間をもてあましていた。病院に出掛けるまでに間があり過ぎて、どうやって過ごしたものかと首を傾げていた。
そしてふっと、川縁に散歩に行こう、と思いついた。
川縁には薄く靄が広がっており。対岸の景色は仄かに霞んでいる。そんな情景を見やりながら歩いていた時、眼に飛び込んできたものがあった。

一人の男性の背中。
その人は、泣いていた。

誰にも知られぬよう、ひっそりと。声も出さず、ただ背中を小刻みに震わせて、その人は泣いていた。何度も拳で涙を拭いながら、彼は川っぷちに座り込んでいた。

私の胸は一度、どきりと脈打った。
でも。何もできなかった。

少し離れた場所から私は彼をじっと見つめていた。しゃがみこんだ彼は一体どのくらいそうしていただろう。かなり長いこと座っていたけれど。
やがて立ち上がり、その場を離れた。
私は彼が座っていたその場所に立ち、辺りを眺めた。その場所は他の場所よりも靄が濃くて、対岸は殆ど見えなかった。その代わり、左手には薄や背の高い草が茫々と茂り。微風にさやさやと揺れていた。

あの日、彼はここで一人、泣いていた。
理由など知らない。私はただ、そんな彼を離れた場所から見つめていた。

ただ、それだけだった。

2011年10月4日火曜日

その船の行方

それは街中を流れる川に繋がれており。
もうすっかりぼろぼろになった姿で、繋がれており。

哀れだと思った。まるで自分みたいだと思った。とりあえず首輪を嵌められ繋がれて、そこに置き去りにされている。置き去りにしておいてもいい存在とみなされた自分とその船。
哀しくなった。見つめるほど哀しくなった。切なくて切なくて、胸が痛くなった。喉が締め付けられ、呼吸も苦しくなって。
気づいたら、シャッターを切っていた。

フィルムの巻き上げ方も装填の仕方も何も、まだ知りも覚えてもいなくて。隣に立つ友が必死に何か喋っている。私に教えてくれようとしている。それが分かるのに、言葉が分からない。言葉を理解できない。そのくらい私の心と頭は混乱していて。
そういう時間をあの頃、私は過ごしていた。

そう、誰の言葉も、私に届かなかった。いろんな人が私の肩を叩き、話しかけてくれた。なのに私には、その人の口が動いている、唇が動いている、と、それしか認知できず。もう、私の心は壊れていた。決壊した川のように。どくどくと血を流していた。ヒトの言葉も分からなくなるほどに。

人間という字はヒトのアイダと書く。ヒトのアイダにいてこそ人間なんだ。でも私はあの頃。
もはや人間でもなかった。ヒトのアイダにいることなど、もう私には、できなくなっていた。

クルシイとかイタイとかツライとか、そういったものがもう、感じとれなくなっていた。嬉しいも喜びもみんな、何処かに消えてなくなって、私の手の届かないところに遠ざかって。
無感動、無感情、という状態がもし在り得るのであれば。私はその頃、そういう位置にいた。

そんな私が、哀しいと思った。切ないと思った。あの船。
数年後、船は無残にも壊され、撤去された。
あの川にもう、あの船の姿は、ない。