2011年10月11日火曜日

つるかめ屋

その街はどちらかといえば夜の街だった。夜大勢の飲んべぇ客が集い、これでもかというほどに賑わう。そういう街だった。
私はその街をよく訪れた。真夜中にこっそりひとりで訪れる時もあったが、その殆どは客が引けた明け方だった。
始発に乗ってことこと電車に揺られて出掛けてゆくと、たいてい野良猫が出迎えてくれた。明け始める街に向かって、私は好き勝手にシャッターを切って過ごした。

或る時、小さな小さな店の前に猫が戯れており。私はあまりにその姿が可愛くて立ち止まった。そんな私に声を掛けてきた人がいた。つるかめ屋のおばさんだ。
おばさん、正確にはおばあさんと言うべき年頃のその方は、にこにこ笑いながら私に突然菓子パンを差し出した。
朝からご苦労様ねぇ、おなか空いたでしょ、これお食べ。
そう言って差し出す菓子パンはあんぱん。私は吃驚しながらも、ありがとうと受け取る。
すると、こっちにいらっしゃい、と手招きするおばさん。

細い小さな造りの店の中は散らかし放題で。テーブルの上に土足の猫がどかどか上がっては丸くなっている。おばさんはその傍らで握り飯とあんぱんを食している。

いつのまにかおばさんの身の上話になっていた。戦争のこと、生きて帰ってきた旦那は早々に癌になり死んでいったこと、店をきりもりしていた時代のこと、おでんやから飲み屋へそうしてやがて閉店、今じゃ誰にも忘れられたひとりぼっちの身の上だということ。おばさんはからからと笑いながら、そういった一連の話を私に聴かせてくれた。
どこまでが本当でどこまでが作り話なのか、そんなこともうどうでもよかった。おばさんがそうやって私に向かって話しかけてくれること、それだけは間違いなく真実で。
だから私は、ただ耳を傾けた。

おばさんが最後にぽつり、言った。
この街も変わった。もう私の居場所はないよ。寂しいねぇ。

おばさんの話が終わる頃にはもう、すっかり日は高く昇り。私はありがとうございましたと店を出る。

あの日、この店で撮ったこの写真を必ず渡しに来ると約束した。でも。
数ヵ月後、この場所にやってくると、この場所は空っぽだった。

結局私はおばさんに写真を渡すことができぬまま。今日に至る。あの場所につるかめ屋はもうない。でも私の記憶の中、確かにつるかめ屋はここに在り、おばさんは生き続けている。