2012年3月24日土曜日

ぽつり、ベンチ

自分の家の近所で迷子になるなんて、おかしなことに聴こえるかもしれないけれど。当時私が住んでいた町は実に入り組んだ細道ばかりの町で。私は事あるごとに迷子になっていた。
性分なのだろう、知らない道を見るとつい、通ってみたくなるのだ。そうして迷子になる。

その日はとてもよく晴れた日で。散歩するにはうってつけの日だった。
私はホルガを右手にぶら下げて、てこてこ歩いていた。あ、この道は知らない道だと思うとくねっと曲がり、また知らない道を見つけるとそこに入り込み。としているうちに、すっかり迷子になってしまった。遠く埋立地の高層ビル群が見えるものの、どちらに曲がったら我が家に帰り着けるのか、いっこうに分からなくて。
もうくたくたになって途方に暮れて。
その時、このベンチを見つけた。
マンションが三つ並んだ、その片隅に、このベンチがぽつり、置いてあった。人通りの全くないところで、道を訊くにも訊けず、私はベンチをじっと見つめた。

「座ってもよろしいでしょうか」
誰にともなく呟いた。
ベンチはもちろん返事をしてくれるわけでもなく。ただ黙ってそこに在り。
私はそろそろと、ベンチに座った。
歩き疲れた足はもうくてんくてんに疲れており。私は半分泣きたくなっていた。
でも。

ベンチに座ると、空がすかんと見渡せて。空をちょうど鳥が渡ってゆくところで。
雲がひとつふたつ、ぽっかり浮かんでおり。
何だかそれは、とてもいとおしい光景で。

ぽつり、置いてあったベンチに私は励まされ、結局それからさらに一時間歩いて家に帰った。
あのベンチは、今も私の目の中にあるけれど。

何処にそのベンチが在るのか、私にはもうさっぱり、分からない。