2013年4月29日月曜日

おいなりさん

小学生の頃、おいなりさんが苦手だった。食べたことはなかった、見るのが酷く苦手だった。
小学校の運動会でのお弁当といえば、おいなりさんは定番の品のひ
とつで。でも、私の弁当はたいてい私自身が作ったものであり、母の気持ちの込められた弁当とは違っていた。自分で作った弁当だから何が入ってるかなんて最初から分かっているし味も全部知っている。おもしろくも何ともない、要するに私にとっては冷たい他人事の弁当だった。
それが、周囲を見回せば誰彼の弁当も華やいでいて。その中でも手間のかかったおいなりさんは、ひときわ輝いて見えて。
だから、私はおいなりさんをどうぞと差し出されても決して箸をつけなかった。いや、つけられなかった。申し訳なさ過ぎて。私にはこれを食べる資格はないと思えて。
資格がない、私にはその資格がないから母も作らない―――そうでも思わなければ自分の気持ちがやりくりできなかった。普段の学校は給食で誤魔化されていても、こうした運動会や遠足といった行事になると、弁当が登場し、そうして私はそのたび、惨めな気持ちになってぺしゃんこになるのだった。

今、家族を持つようになって。
最初の夫の頃、私は料理をするのが怖かった。必ず残され棄てられる。気に入らない味付け歯応えのものは、容赦なく残され、棄てられる。それを目の前で為される。見るのがとても辛かった。厭だった。

娘と二人暮らしになってようやく、私は久しぶりに安心して料理をするようになった。娘と二人きり、とても気楽だった。気兼ねなく自分の好きなものを、好きなように作り、二人で食べた。

今新しい家族の為に私は毎日料理をする。幼子がいるとなかなか思うように時間が取れなくて充分な料理ができないのは事実だけれど、でも。
できるだけ作りたいと思える。それはとても幸せなことだと思っている。
食べてくれる人がそこに在て、食べてもらえると信じることができて。
いただきます、ごちそうさま、が、何気なく当たり前に交わされる食卓。

そうして私は或る日突然あの、おいなりさんを思い出した。
あぁ、今なら作ることができるかもしれない、自分にも。そう思えた。だから、見よう見真似で作ってみることにした。

作って、そうして、皿に並べて。食卓の中央に置かれた大皿の上、おいなりさんは艶々と輝いて見えた。娘の口の中に、彼の口の中に、おいなりさんがひとつずつ運ばれてゆくのをぼんやり眺めながら、幸せっていうのはとてもささやかな、だからこそつい見落としてしまうものなのだなと納得した。翻って、ささやかだからこそ大切な大切な、ひとかけらなのだな、と。

母がおいなりさんを作らなかったことには何か理由があったのだろうか。今ならそれを尋ねてみたいと思う。でも。きっと実際には尋ねない。もう、尋ねる必要がないからだ。
なぜなら。
私は、おいなりさんや弁当を作ってくれなかった母を、もう恨んではいない、と気付くことができたから。

あの頃、母が料理をほとんどせず、あの人の背中ばかりを見せ付けられる毎日を私が送っていたからこそ、今こうして、家族にせっせとご飯を作りたいと思うのかもしれない。
あの頃、母や父から無言のうちに圧し掛かられていたその精神的肉体的圧力のおかげで、私は今こうして呼吸できているのかもしれない。
そんなことを、思うから。

別に、父母を赦そうとか何だとか。
もはやそんな大袈裟なことでも何でもなく。
あぁあの人たちもきっと、あの人たちならではの人生を今日の今日まで背負って培ってきているのだなと、そう思うから。

私は私の人生を、しかと掴んで、積み重ねて、死んでいけばいいだけだ、と、今なら思うことができる。
他の誰の為でも何でもない、ただ、私の為に私の幸せを味わっていい、ただ自分の為だけに私は私の大切な人たちを愛し慈しんでいい。そう、思うから。

おいなりさん。
また作ろう。