2014年4月14日月曜日

「勿忘草は要らない」

今日は、大事な友人のブログを紹介したくてこれを書きます。

よくひとは言います。「あなたってそんなひとだったの」とか「そんなひとだとは思わなかった」。あなたもそんな言葉を使ったこと、ありませんか?
私にはあります。

でもそれって、勝手に自分が作り上げたイメージに相手が嵌っていなかったに過ぎないんですよね。つまり、私が勝手にそのひとのイメージを作り上げて、そこに相手をはめ込もうとしていたということ。もっと言えば、相手のあるがままを見ようとしていなかった、ということ。

たとえば。
私はかつて被害者のひとりになりました。犯罪被害者のひとりに。
そこで出会ったのは、多くの勝手な「イメージ」でした。
被害者は不幸なもの、と勝手に括りあげられて、私は不幸で居続けなければいけない、と、そういうくくりに嵌められた。
それはどれほど私にとって窮屈で辛いことだったか。
想像してもらえるでしょうか。

ひとは変化してゆくもの。もちろん変化しないことを選択することだってできますが、それさえ変化の一部と言えなくはない。
でも。
イメージは固定される。
その固定化されたイメージから外れると、ひとは言います、「そんなひとだとは思わなかった」とか「ありえない!」とか。

でもそれは違う。
たまたまあなたが勝手に私のイメージを作り上げてしまっただけで、じゃぁあなたは私のあるがままを一度でも見ようとしてくれたことがあったか?と。
私はそう、問いたいです。

私には大事な友人が何人かいます。
何があっても譲れない友人が数人ですがいます。
そのひとりが、今日紹介しようと思っている、知久織似子さんです。

ひらたく彼女のことを説明すると。夫に縊死された後、繊細な心を持つ娘さんをひとりで養いながら生きる女性、です。
でも、
その彼女には、とてつもない葛藤がありました。

その葛藤を、あるがまま綴ったのが、ブログ「勿忘草は要らない」です。

彼女が書くほどに、批判中傷の声があがりました。
でも。
いったい何をもってして、あなたは批判中傷できたのだろう?

あなたは「遺族」というもののイメージを勝手に膨らませ、そのイメージにはまらない彼女を断罪しようとしただけじゃないだろうか?

遺族、特に自死遺族というと、そのイメージはとても狭い。
亡きひとをいつまでも思ってうなだれて、幸薄い、今にも倒れそうな細いイメージ。
違いますか? あなたは今そんなイメージを抱いていませんでしたか?

ブログを読めばわかりますが。
織似子さんは最初、勝手に死んだ夫を憎みさえした。
そのことを彼女は正直に綴っています。
そして、
仏壇に手を合わせられない日々。
それを批判中傷する赤の他人がたくさんいたそうです。が。
どうして、いったいなぜ、批判中傷できるのでしょう?


彼女がどれほど葛藤したか。
今もどれほど苦しみ、どれほどの荷物を引きずって担って立っているか。
どうしてそのことに、思いをはせることができないのでしょう。

既存のイメージからちょっと外れたから。外れているから。
つまり「例外」は排除せよ、ということでしょうか。

あなたは、あなた自身がそうされたときのことを、ちょっとでも想像したことが、ありますか?

私は言いたい。
あるがままを見よ、ということを。
誰に接する時でも、自分の中にふつふつと湧き起こる勝手なイメージを見るのではなく、
目の前のひとのあるがままをこそ、受け容れてほしい、ということを。

イメージは、
ひとを殺し得ます。
そのことに、気づいてほしい。

ひとを、追い詰めるのです、あなたが勝手に作り上げた相手のイメージによって、
その相手は息切れし、窒息し、死ぬことだってあるということを。

どうか、その心に、心のどこかに、
置いてほしい。

今ブログは山場を迎えています。
それをあなたはどう読んでくれるだろう。

私は。
彼女に教えられました。生きることは美しい、と。
でもその美しさの足元には、どれほどの血反吐が、痛みが、苦しみが、横たわっていることか。

「勿忘草は要らない」
よかったら、訪れてみてください。
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