2014年8月1日金曜日

時薬


私は音楽を四六時中聴いていた。音楽がないと街を歩くことがある時からできなくなったからだ。
音で耳を塞いでいないと、ひとごみを歩くことはとても私にはできなかった。
そういう時期が、あった。

それがここ数年、少しずつ変化し始めた。
ボリュームを最大にしていなくても、大丈夫になり始めたのだ。
それまでは、最大ボリュームで両耳をヘッドフォンで塞いでぎゅっと手を握り締めていないと耐えられなかったひとごみ。なのに、どうして大丈夫になってきたのだろう。
そう考えて、はたと気づいたのは。

私の中に、微かにだけれど、境界線が出来始めたのかもしれない、と。
そのことに、気づいた。

ある日突然、壊れた境界線。崩壊した堤防だった。
世界と私とを繋げていた糸も、その時ぷちんと切れた。
でも。

十年、十五年して、ようやっと。
見えてきた。再生してきた、微かな境界線。

私は気づけば、ボリュームを小さくしていても、或いは片耳だけでも、ひとごみをすり抜けられるようになっていた。
ひとの話声も街の雑音も、前のようにぶすぶすと突き刺さってこなくなっていた。
ああそうか、私はすこし、ふつうのひとみたいに歩けるようになったんだ、と、
その時、気づいた。

ここからさらに、十年二十年したら、
私はもうヘッドフォンなんてしていなくても、音楽なんて四六時中流していなくても、
ひとごみを歩けるようになるんじゃなかろうか、と。
そんな期待が沸いてきた。

時薬、というものが、ある、と、
昔聴いたけれど、当時はまったくもって信じられなかった。

今なら。

少し、信じられるかな、
なんて、思う。