2014年11月17日月曜日

「落し物は何ですか」


  そういえば君の誕生日だったのか、と、気付いたのはもうその日から一週間も過ぎてからだった。今度の誕生日は25歳になるし、つきあい始めて五年目の記念日でもあるから、その日はどんなに仕事が忙しくても何でも、ちょっとでもいいから必ず一緒に過ごしてね、と、普段にはない甘え声で君が俯きながら言ったのは、多分、そう、半月前のことだったと思う。
 記念日って類をあまり記憶してない僕は、君に言われなければ、君の誕生日ってことも思い出さなかっただろうし、それが二人が付合い始めて五年目の記念日だなんてこれっぽっちも省みることはなかった。言われてからも正直、五年目だから何だっていうんだ、という気持ちの方が大きい。君こそどうしてそんなことにこだわっているのかと、不思議になる。
 そんな僕だから、君が言う記念日、誕生日でもクリスマスでも何でも、たいていすっ飛ばして、君を一人にさせて、仕事にかまけているという具合だ。君はその度、恨み言を一つ二つ言うのだけれど、言われたその時は僕も、あぁ今度は、と思うのだけれど、習慣を変えるというのは思った以上に難しいことらしく、この五年というもの、君の誕生日をその日にまともに祝ったこともなければ、クリスマスを一緒に過ごしたのもつきあい始めて最初の年だけ、一方君は、僕の誕生日には僕が忘れていても、必ず僕の部屋にやってくる、といった具合だった。
 あぁ、君の誕生日だった、忘れてた、と思い出した僕は、いまさら遅いと一度は放ったものの、あの時の君の甘え声が引っかかって、もう一週間も過ぎたけれどやっぱり何かプレゼントでもしようか、と思い直した。とはいっても何をプレゼントすればいいのか思いつかない。面倒臭くなって、仕事場の近くのデパートで、君の好きな青い石のピアスを買った。
 その足で君に会いに行こうと電話してみると、通じない。もし留守なら必ず留守電にしておく君なのに、留守電に切り替わることもなく、延々と呼出音が続く。どうしたのだろう。これまで一度としてこんなことはなかった。何かあったのだろうか。そういえば、この一週間というもの、君からの電話はなかった、もちろん会ってもいない、ってことは、君の誕生日を僕が忘れていたにも係らず、君は普段言う恨み言を僕に言ってくることさえなく過ぎていたってことだ。そのことに気付いて僕は慌てた。いつもならもうとっくに君から「誕生日くらい覚えておいてくれてもいいのに」とか、「一緒に過ごそうねって言ったのに」という言葉を受けているはずだ。
 電車に飛び乗り、君の部屋へ向かう。すっかり暮れ落ちた街の灯りが窓の外を流れ飛ぶ。
 君の部屋に辿り着いてブザーを押す。返事がない。ノブに手をかける。と。鍵が開いている。僕の不安は一気に倍増する。
 勢いで扉を開け、部屋に駆け込む。と。
 君が床を這っている。いや、何と言うか、床の上を手であちこち撫ぜながら、這いつくばっている。無言で。
「何やってんの」
 問いかけると、君は僕を振り向くこともなく言った。
「目を落としてしまいました」
 あまりの突飛な君の言葉に、僕はあんぐりした。こんなに心配して何かあったんじゃないかと心配して走って来たってのに、何言ってんだ、と一気に不快感がこみ上げた。
「何言ってんだよ、おまえ」
「目を落としてしまったんです」
 それでも君は繰り返す。その間も君の手は、右に左に前に後ろに床を這い、落としたらしい何かを探している。
「目って何の目だよ、何を落としたっていうの」
 僕は不快感が頂点に達する一歩手前で君にそう言った。すると、君が無機質な口ぶりで、僕に、いや、まるでテープに録音された朗読かなにかのような口調で宙に向かってこう言う。
「私の目です。目を落としました。探してください」
「冗談もたいがいにしろよ、おまえの目、そこについてるじゃないか」
「いえ、落としちゃったんです。ないんです。私の目がないんです。探さないと。一緒に探してください」
 僕は、何か、別のものを見ている気がした。君ではない別のものを。君は君で、僕を僕と思っていないかのようだった。さっきまで僕の左前方に居た君は、床を撫でながら這って来ていつのまにか僕の目の前に来ていた。目の前にいるのに、床を這っている君の目に少なくとも僕の足は映っているはずなのに、君にはそれが映っていないかのようだった。実際、君は僕の足にぶつかったのだから。僕の足にぶつかった手は、しばらく僕の足首を触って確かめていたが、やがて右にそれて行った。そしてまだ探している。何かを。
 とにかく気を鎮めようと思った。このままじゃ君をぶっ飛ばしたい気分になってしまう気がした。せっかくプレゼントを買ってここまで走ってきたのに、そりゃ一週間遅れたけれども、でも、それでも、思い出して今日こうしてプレゼントを買ってお祝いしようとやってきたのに、そういう何もかもを一瞬にして台無しにされれば誰だって不愉快になるだろう。でも、このまま不愉快だと済ますのも躊躇われ、僕はともかくも気を鎮めようと思った。
 君はまだ床を這っている。
 そんな君を眼の端にとらえながら僕は、カーテンも閉め切ったままの君の部屋をぐるんと眺めてみる。いつもの君の部屋だ。別に何も変わっちゃいない。いや、待てよ、違う、テーブルが飾られている。僕はようやく気付いた。
 二人分の食器にグラスに。中央には萎れた花。眺めていて、気付いた。君は一週間前の誕生日を、一緒に過ごそうと祝ってと言った誕生日を、こうして準備して待っていたんだってこと。
 一気に不快感が萎え、代わりに申し訳なさがじんわりと僕の中にこみ上げてきた。そうして君を振りかえると、やっぱり君はまだ床を這っている。
「ごめん。せっかく待っててくれたのに。忘れてたんだ。今日改めてお祝いしようよ」
 そう君に言う。
 君はテーブルの下に入り込んで、床を撫でている。
「なぁ、いい加減にしろよ、なんで目が落ちてるんだよ。おかしいぞ」
 言いながらしゃがみ込んで君の顔を覗き込むと、君は涙をいっぱい目に溜めていた。
「目、あるよ、そこに。付いてるじゃないか。落ちてないよ」
 僕は何とか君に床を這うのを止めさせようと、もう一度君に言った。すると君は、溜めていた涙をぽとんぽとんと落としながら、かすれ声で
「ないんです。ないんです。目がないからカレンダーも時計も何も見えない。あなたの顔も見えないんです。目を探してください。私の目。探してください」
 もうどうしていいか分からなかった。君が狂ったとしか思えなくなってきた。最初は冗談だと思って、悪ふざけかと思って見ていたけれど、今目の前で涙を流す君はどう見ても、冗談には見えない。試しに聴いてみた。
「いつ落としたの?」
 君が答える。
「24日です」
 それは君の誕生日だ。僕は続けて君に尋ねた。
「どうして落ちちゃったの」
「分かりません。あなたが来るのを待っていたら、突然目が落ちてしまったんです」
 君の誕生日に君は、この部屋で、僕を待っていたら、そしたら目が落ちたってことなのか。
「ずっと探してるの?」
「だって。だって、目がなくちゃ、どうしたらいいんですか」
 僕はもう、何も言いようがなかった。だって、君の目はちゃんと君の顔にくっついている。この前、半月前に会ったときと同じように、この五年、飽きるほどに見慣れた君の顔にちゃんとついている。それなのに君は、目がないと、目を落としたと、そう言う。床にへたり込んだ僕は、それからしばらく床を這う君を眺めていた。でも、こうしていてもしょうがない。
「ねぇ、もう今日は止めようよ。明日、もう一度探したら。そしたら見つかるかもしれないじゃない」
「…」
「一緒に探すから。な」
「はい」
 君はようやく、床を撫でる手を止めた。でも、君はすっかり目がなくなったようで、立ち上がろうとしてテーブルに頭をぶつけ、テーブルから出てこようとして今度は椅子にひっかかり、僕が手を差し出してもその手に気付かず、結局テーブルの縁伝いに椅子を引き寄せてそこに座った。君の顔についている目を僕が覗き込んでも、視線はそっぽを向いたままだった。結局その夜、僕が君を布団まで連れていって、一緒に横になって眠った。

 翌日になれば、きっといつもの君に戻っているだろうと僕はタカをくくっていた。目が覚めてみると君はもう目を覚ましていたらしく、横になっている僕の真横に膝を揃えて座っている。
「おはよう」
 そう声をかける。が、君は返事を返さない。
「どうしたの」
 僕は体を起こして君の顔を見た。すると、
「顔が。顔がないんです」
 僕は唖然とした。
「何処かに落っことしてしまったみたいです。探してください」
 目の次は顔か。一体何処に落っことしたっていうんだ。だって、君の顔はそこに、君の首の上にちゃんとあるじゃないか。
「もういい加減にしろよ」
 思わず僕はそう口にしていた。が、君の耳にそれが届いていたのかどうか。何故なら、いつもだったらそういう僕の言葉に瞬時に反応する君が、その時は全くといっていいほど反応がなく、絵に描いたように正座したまま止まっているのだ。もう理解の範疇を超えていると思った。このまま一緒にいるのは耐えられない。僕は、それ以上何も言わず、正座している君をそこに残して、逃げるように部屋を出た。

 目を落としました。探してください。
 顔を失くしました。探してください。
 君は一体どうなってしまったのだろう。目だって顔だって、ちゃんと在った。在るにもかかわらず君はそれを無いという。落としてしまったという。どういうことなんだろう。部屋を出てからも、同じ事をぐるぐるぐるぐる僕は考え続けた。考え続けたけれどそんな問いにそもそも答えが出るわけはない。在るものを無いと君が言っているだけなのだから、君が間違っているだけの話しだ。僕は、仕事場にゆくといつものように仕事をし、いや、いつも以上に仕事に没頭することで、君の奇妙な言葉を頭からかき消すことにした。昼休みも一服の時間もとらず、退社時刻まで一気に仕事にのめり込むなんて、そういえばどのくらいぶりなんだろう。就職して七年、入れ替わりの激しい仕事場で、新入社員だった僕はいつのまにか古株になっている。一生懸命なんて言葉はすっかり遠のき、何でも適度に適当に、こなす術を覚えた。でっぱらず、へっこまず、自分を適度に保つ処世の術も、今じゃ目を閉じてたってすんなりできる。
 勢いづいて、予定外の仕事もこなし、気付けば時計は夜を指している。帰宅しようとして、そこで、僕はまた君の言葉に躓いた。
 目を落としました。探してください。
 顔を失くしました。探してください。
 君は今日はどうしていたんだろう。もう正気に戻ってるだろうか。カバンの中には、昨日買ったピアスの小箱が、所在無さ気に入っている。どうしようか。迷いながら、気付けば僕は君の部屋の扉の前にいた。昨日と同じように呼び鈴を押す。返事がない。ノブに手をかける。やっぱり。昨日と同じように鍵がかかっていない。
 中に入ると。
 君は。君は、朝、座っていた場所にそのまま、同じ格好で座っている。まさかあれからずっとこうして座っていたんじゃないよな、と思いつつも、でも、全く同じ格好で、同じ場所に座れるわけもなく、つまり君は、あれからずっとここにこうしていたんだということを知る。呆れるを通り越して、僕は半ば恐ろしくなっていた。
「大丈夫?」
 そう声をかけてみる。声が上ずるのをどうにも抑えられない。僕は君を見つめた。返事がない。
「どうした。な、大丈夫か?」
 もう一度声をかける。今度は君にもう少し近づいて。すると、君がぽつり、言った。
「あなたが、いません」
 消え入りそうな声だった。
 そこにはまだ正気に戻っていないのかと思う隙間さえなかった。

 それから夜中になるまで僕は、君に、僕はここにいると言い続けた。が、君はそのたび首を横に振り、こう言うのだった。あなたがいなくなりました。探しても探してもいません。あなたがいなくなりました。
 頭の中がすっかり混乱してきた僕は、話しを逸らしてみることにして、目は見つかったのか、顔は見つかったのかと訊いてみた。すると、君は答える。目も顔も、失くなったままです。もう、何処をどう探していいのか分かりません。と。
 僕の喉はすっかり涸れ、君に、僕はここにいる、君の目も顔もちゃんとそこに在ると言い続ける気力も使い果たした。横になろうと明日になればきっとみんな見つかるよと言い、何とか君を横にならせたものの、君は目を見開いたまま、天井を見つめていた。いや、本当は君が天井を見つめていたのかどうか分からない。君の言い分に従えば君は目を失くしているのだから君の目が天井の方向にじっと見開かれていようとそれは、何も映していないのかもしれない。僕は、まるでガラス玉のように夜気を映す君の目を、これ以上見たくなくて、君の隣で目を閉じた。明日こそは、明日になれば、君はきっともとに戻っている。これは夢だ。夢なんだ、夢は必ず醒める。
 翌朝、自分が眠ったのか眠っていなかったのか分からないようなどろんとしただるさの中で瞼をこじ開けると、君は僕の横にいた。昨夜と同じく僕の横で、じっと仰向けになり、そしてやっぱり同じく、天井を見つめている。
「おはよう」
 君に言ってみる。今日こそは、今度こそは、おはようと返事が返って来ることを願いながら。すると君が言う。
「私を落としてしまいました」
 起きあがる気力が一気に吸い取られる気がした。僕は起こしかけた頭を再び、枕にうずもらせた。
 もういい加減にしてくれ。こんなことなら恨み言に一日二日付合うほうがどれほどマシかしれない。いや、三日でも四日でも、いくらでも付合うから、頼むから目を覚ましてくれよ。僕が君の誕生日を忘れてたのがそんなに不愉快なら、不愉快だってそう言えばいいじゃないか。いや、今年の誕生日だけじゃない、考えてみれば、つきあい始めてからずっと、君の誕生日にしても何にしても、君が記念日と言ってはしゃぐこと全部僕は、右から左へと流してきた。別に記念日じゃなくても、約束だよと君が言ったことを結構無視して、忘れて過ごしてきてる。それは確かに悪いかもしれないけど、でも。いや、そうじゃない、君が僕に言った言葉の殆ど、僕は聞き流してる。つきあい始めた頃はそりゃ、一生懸命耳を傾けていたりしたことがあったと思うけど、もうこれだけ一緒にいるんだし、お互いのこと良いところも悪いところもたいていのことは知ってる。だから、いちいち気に留めるのも面倒だから、喧嘩するのもかったるいし、だから、適当にやって、それで…。いや、そんなことはもうどうでもいい。君だってそんなことが言いたいんじゃないんだろ。そんなんじゃなくて、あぁ、だからだから…、頼む、目を醒ましてくれよ、そしてちゃんと話しをしよう。話しを。ねぇ、プレゼントを買ってきたんだ、君の誕生日だったろ、遅れてごめん、遅れたけど、君が好きな青い石のピアスを買ってきたんだ、お祝いしようよ、な、今からお祝いしよう、それで、ちゃんと話そう、今日は二人で話そう、向き合って過ごそう。だから頼むよ、もうその夢から出て来てくれよ、そうだよ、何も失くなってなんかないじゃないか、落とした落としたっていうけど何も落としてなんかいやしないじゃないか、君はここにいる、僕だってここにいる。そもそも君の目も顔も、ちゃんとそこに在るんだ。ほら、ここに在るだろ、ほら。

 そんな僕に、ゆっくりと君の声が、振りかかる。

「私を失くしてしまいました。
 私は誰ですか。教えてください。
  あなたは誰ですか。
   私は誰ですか。
    教えて、教えてください」