2014年6月30日月曜日

「冬咲花」より 03

 
そもそも nikoは何故声を上げようと思ったのか。
私に撮られようなんて思ったのか。
性犯罪被害者である彼女が、何故自分の姿を晒そうと、晒してまで訴えようとしたのか。

自分と同じような被害に遭い、今沈黙を強いられている誰かに、自分はここにいるよと伝えたかった。
そうやって蹲っているのは何もあなただけじゃないんだよと伝えたかった。
あなたもわたしも、生きていていいんだよ、と何より自分が信じたかった。

まだ事件に遭って間もない彼女は、いつだって揺れていた。
揺れながらも、でも、必死に足を踏ん張っていた。

だから。
私も彼女に、正面から応えよう、と努めた。

冬の終わりの或る日、私たちは森林公園へ行った。
早朝の撮影、その直前彼女は発作を起こした。
これは撮影なんて無理かもしれない、とどこかで思いが掠めた。
でも。

私たちは、バスに乗り、公園へ向かった。
蒼褪めた顔の彼女を、私は追いかけた。彼女は徐々に生気を取り戻していくようにも感じられたが、でも同時に、久しぶりに外に出たせいで疲労の色が濃かった。

彼女の裸足の足は、必死に大地に踏ん張っていた。
それを見て私はどれほど、励まされる思いがしたことか知れない。
心の中で私は言っていた。
大丈夫、大丈夫だよ niko さん。
あなたはちゃんと、そこにいる。


2014年6月26日木曜日

「冬咲花」より 02


nikoはいつも、どこか俯いていた。
それも当然なのかもしれない、被害に遭い、それまで自分が当たり前にこなしていたこと、当たり前と思っていたこと、ありとあらゆることすべてが破壊され崩壊するのを目の当たりにしたばかりの彼女に、言ってみればまだそのただなかにいる彼女に、世界を直視するのは困難極まりなかったろう。

いつも俯いて、翳りを帯びている彼女に、何が今見えているのだろう。
私はある時そう思って、敢えて俯いてみた。

世界はどこもかしこもアスファルトで。
そのアスファルトにはあちこち染みや汚れ、亀裂が入っていたりして。
ああまるで被害に遭った自分のようだ、と感じられた。
そして、
できることならこのままこのアスファルトに沈み込んで、いなくなってしまいたい、
と、強く思った。

もしかしたら niko もそうだったのかもしれない。

なかなか彼女の「今」を受け容れかねて戸惑っているパートナーの存在も、
彼女に大きく影響していたろう。
彼女の「今ここ」にある現実を受け容れかねて、むしろ二次被害三次被害に当たるような言葉を吐いてしまう行為してしまうパートナー、
その彼を受け容れたくて、でも受け容れられなくて、どうしようもなく行き詰ってしまう自分。

そんな狭間で、彼女は常に揺れ動いていた。

それでも。
前に進みたい。
前に進みたい。
その彼女の痛切な叫びは、全身から発せられていた。

それはとてつもなく切ない、でも、全身から絞り出される声、だった。


2014年6月22日日曜日

「冬咲花」より 01


「冬咲花」は、「声を聴かせて」にも掲載したシリーズだ。週刊金曜日でご存知の方もいるかもしれない。
ここでは、「声を聴かせて」では触れなかったことなどについて、ちらほら、触れてみようと思う。

あの日。
nikoは泣いていた。会った最初から不安定だった。
私は敢えて、泣いている理由を尋ねなかった。
私にできることは、理由を問いただすことより、ただ一緒にいること、或いは彼女を笑わせることだと思ったから。

私の部屋で泣くだけ泣いた彼女に、私はふと言った。
写真、撮ろうか。

蹲ったままぬいぐるみを抱く彼女を、私はそのまま撮った。
言葉は、もう要らないと思った。
彼女と私がここにいて、この時間を共有していることが、大事だと思った。

そうして部屋で十数回シャッターを切った後、私は彼女を外へ誘った。
最初嫌がっていた彼女だった。でも、
私は、今出ないといつまでたっても外に出れなくなるよ、と強引に誘った。



当時の私の部屋のすぐ前は、公園だった。
その日日差しは燦々と降り注いでいて、春の始まりを予感させるような日和だった。
無理矢理私に連れ出されたnikoだったのに、鉄棒を見つけた途端表情が変わった。
「鉄棒、昔よく遊びました。好きだったんですよねぇ。いつの間にか忘れてた」
そう言って鉄棒にひょいっと飛び乗った彼女は、いつのまにか笑顔になっていた。
鉄棒、好きだったぁ、と繰り返し言いながら、くるくると棒を回っていた。

彼女を見ていると、私は自ずと、自分の過去を思い出さずにはいられなかった。
被害に遭ってしばらくして、閉じこもることしかできなくなっていた頃の自分を。

nikoは被害に遭ってその頃まだ間もなかった。だからこそ、
私はそんなnikoの姿に過去の自分を重ね合わせたんだろうと思う。

その日、彼女はとてもいい顔をして私に手を振って帰って行った。
でもまだまだ、彼女は、細い細い綱の上を、綱渡りしてる、そんな位置にいた。
 

2014年6月19日木曜日

向こう側

或る朝の窓越しの東の空。

毎朝毎朝この窓から空を見つめる。
曇ってる日もあれば晴れ渡る日もある、雨の日ももちろんあって。
それでも窓は律儀に、空を私に見せる。

見つめる程、太陽は私の眼を焼くのに
私は目を逸らせない。雨の日さえもそこに、太陽があるような気がする。

ガラス窓は、ただそこにあるだけで
その向こう側を私に、見つめさせる。




2014年6月18日水曜日

心ざわめかす


とある写真家の冊子を見終えたオットが呟いた。
下手だな。
私が戸惑っているとオットが続けた。
下手でも、残るんだ。残るんだよ、未来にこうやって。
うまい写真が残るかと言えばそうでもなくて。
残る写真ってのは、うまい下手じゃあ、ない。

なるほど、そうかもしれない、と思って改めて周囲を自分を見回してみる。
私が心動かされる写真はどんな写真だったろう、惹かれる写真はどんなだったろう、
そうして見回して、改めて気づくのは。

私は。
うまい写真が撮りたいわけじゃあないというそのこと、だ。

じゃぁどんな写真が撮りたいかといえば。それは、
よくも悪くも、ひとの心をざわめかせるような写真が撮りたい、
だ。

よくも悪くも、といったのには意味がある。
ただ心地いいだけの写真が撮りたいわけではないからだ。
心地いい写真、それはたとえば、気持ちよくなったり伸び伸びさせられたり、嬉しくなったり。
そういうプラスの感情が喚起される写真のこと。
私は、
そういう写真を否定するわけじゃないし、それらを撮れるならもちろんそういった写真も撮りたいとは思うけれど、けれど、でも、

私が目指すところはもっと、別のところに、ある。

心ざわめかす、写真が撮りたいのだ。
良くも悪くも。
見るには痛みを伴ったり、苦痛を伴ったりもするような。
それなのに、
どうしても立ち止まらざるを得ないような。

気になって気になって、どうしてもその写真の前に立ち戻ってきてしまう、そんな、

写真が、私は撮りたい。


2014年6月16日月曜日

カッコつけ


彼を見ていると、二十代ってのはカッコつけが大事な時期なのだなということを思い出す。
自分ではちっとも気づかなかったけれど、カッコつけてなんぼだ、というような時期なのかもしれない。

自然体、というものがどういうものか、よくわからない時期は確かに私にもあった。
みなのいうところの自然体っていったい何?というような。
もしかしたら彼も、そうなのかもしれない。

自分でいてくれればいいよ、と私は時々彼に言う。
でも彼は、その自分さえ演じようと必死に足掻く。
だから私のカメラには、そういう足掻いている彼が、カッコをつけようと必死になっている彼が、そのまま写る。

でも、
それでいいんだと思う。
彼が演じずにも自分でいられる時が来たときこれらを見返して、
あー、俺こんなことやってたのかぁと苦笑してくれたら、
それで、いいような気がしている。

そもそも。
カッコつけられる時期なんて、この二十代くらいしかないのかもしれない。
カッコつける背伸び加減が、許される時間なんて。
この時期だけなのかも。

そう思ったら、二十代、ほんと、捨てたもんじゃないぜ、と
思うのだよ。
ファイトだ、二十代。


2014年6月12日木曜日

お葬式


ついこの間のこと。
私はとある葬式をしてきた。

自分の為だけの葬式。
だから勿論参列者なんていない。

前から思ってた、気づいてた、一歩を、
それでも踏み出せなくて、でももう
踏み出さなくちゃと思えたから。

自分の腕の傷を撮った写真を数枚と、
昔、友達が「こらー、切るなー!」と落書きしてくれたカッターをもって丘の上へ。
そこの大樹の根元に、それらを埋めた。

長いこと長いことつきあってきたそれらとさよならすることは
ちょっと寂しいような怖いような、そんなものがあったけれど、
でも、この選択は間違っていないという確信のようなものは確かにあって、
だから、
躊躇うことなく埋めて、見送った。

すべてを終えて見上げた空は
とても、眩しかった。

私の日常はそうやって、今日も上書きされていくんだ。



2014年6月8日日曜日

仄光




ここ数年、堂々巡りしていた。
私は生涯、性犯罪被害者ってのを背負っていくしかないのかなぁ、っていうこと。
それはしんどいよなぁ、それにそれって何か違うよなぁ、って。
ひたすら、堂々巡りしてた。

でも、何だろう。
突然、出口の光が、ほんのり見えた気がする。
もちろんそれは錯覚かもしれない。まだまだここから長いトンネルが続くのかもしれないけれど、
でも、
錯覚でも何でもいい、
光が見えた、気がしたのだ。


背負っていようと背負っていまいとどっちだっていいじゃないか、
私はもう、ここまで来てしまった、そして、ここから行くしかない、
できるのは、
自分のふつうを、一瞬一瞬、見つけて積み重ねて、慈しんでいくことだ、って。

いつも思ってた。
私は結局、どこまでいっても性犯罪被害者で
ひとりの人間として、ただの人間としては、見てもらえないんじゃないか、って。

でも。
見てもらえなくしているのは、なんだか、自分なんじゃないか、って気づいた。
自分で自分を縛ってる、そんな気が、した。

近く、葬式でもしようと思う。
自分の腕の傷の葬式でも。
しようと、思う。

まずは、そこから。